満天の星空だった。
黄昏時の夕立も嘘のように止んでいる。
ひどく蒸された初夏の夜気がその名残り。今は夏本番を思わせる、うだるような暑気が立ち込めていた。
博麗神社へ続く石段の参道にも、じっとりとした熱。
その参道の中ほどで、僕はいつしか足を止めていた。
何しろ、このひたすらに続く石段は普段でもきつい。
空を飛べる者には苦でもないだろうが、僕のような一介の好事家では地べたを這っていかなければならないのだ。
しかも、この森近霖之助は運動不足ときたものだから、この先に続く石段は絶望的そのものといえよう。
一気に登るのを断念して、傍らの石段に座り込む。参道の先を目測で計ると、登頂まであと一息といったところ。
無理はしたくないのが信条だ。その一息のために、5分ほどの一休み。
それがまずかった。
動きを止めた途端、噴出する汗。堪らず襟首を持ち上げ、パタパタと扇ぐものの、入り込むのもまた温い空気。じっとりとした質感は衣服を湿らせるばかりで、しばらくはこの居心地の悪さとお付き合いしなれければならないのだろうか。
衣服が肌にはりついて、どうしようもない不快感。ひっきりなしに響く夏虫の声すら煩わしい。
ため息に火照りをとかして、ほうと夜空へ吐き出した。
そのまま、軽く目を閉じて熱が逃げていくのを待つ。
いつしか、虫の声にまぎれて木々のざわめきが聞こえてきた。鎮守の森を吹きぬける、さざなみのような夜半の音。
ささやかな涼風が、今の僕には実にありがたい。
だが、境内から吹き降ろす風がはらむのは涼しさだけではなかった。言葉の形を成さない、少女たちの姦しい声。すでに多くの人や妖怪が集まっているようだ。
見上げると、石段の先、鳥居の向こうに淡い光の広がり。
すでに、夜通しの宴会がなし崩しに始まっている模様。
このままのんびりしていては、出来上がった知り合いから「遅いぜ、香霖」と絡まれかねない。
僕は不適な笑みを浮かべる一人の少女の姿を思い浮かべる。
「魔理沙にどやされるのは勘弁願いたいものだね」
聞くもののない呟きを残して、再び宴会場となっている境内へ登りだすのだった。
博麗神社の境内は、相変わらず酔っ払いどもの占有地。
三人の騒霊が撒き散らす喧騒に、負けるものかと声を張り上げる夜雀。一方では、そんなものはどうでもいいとばかりの酔客が、思い思いに笑ったり、怒ったり、泣いたりと忙しい。
そんな彼女らを尻目に、僕は既知の友人が待つ拝殿近くへ。
「遅いぜ、香霖!」
予想通りの言葉が僕を迎えてくれた。
声の方向を見やると、いつものとおり陽気な酔い方の霧雨魔理沙。酒瓶を片手に、もう片方の手でアリスを引っ張りまわしつつ、あちこちをふらふらとしている。
「すまなかったね」
急に呼び出したのは君だろう。その言葉を飲み込んで謝っておく。
このところ、僕のスケジュール帳は勝手に書き換えられてばかりだ。
そんな僕の仏頂面に満足してくれたのか、魔理沙の口端には小癪な笑み。
「よし、許すぜ」
寛大なお言葉を賜っておきながら何だが、すでに出来上がりつつある魔理沙を見ていると僕の憂鬱は深くなる。
今日も倒れるまで飲む気だろうか。そうなれば面倒を見るのは誰だと思っている。
ほどほどにしておいてくれよ。
そんな台詞を投げかけようと魔理沙に向き直ろうとする。
が、僕に見えたのは遠ざかる魔理沙の背中。魔理沙はすでに興味の赴くまま、境内を気ままに歩き出していた。
その行き先は、一角を占める紅魔館の集団。飛び込むようになだれ込み、やがて這い出してくるが、手を掴む相手がアリスからパチュリーに代わっていた。
俯き加減で黙って連れ回されるパチュリーと、その後をあたふたしながらついていくアリス。
若干、背筋がうすら寒い光景ではあった。
にも関わらず、その様子を楽しげに眺めつつ杯をあおる人物が拝殿近くの石畳に一人。
この神社の巫女、博麗霊夢だった。
「あら、霖之助さん。お先に始めているわよ」
僕と視線が合うなり、杯を僕へ向け、にっこりと挨拶してくる。
霊夢はほろ酔い加減。気だるげな眼差しで僕を見つめている。
先ほどまで杯を仰いでいたのだろう。微笑を形作る唇は艶やかに潤んでいて、僕の目を惹く。
それは、彼女の後ろで燃え盛るかがり火の悪戯だろうか。杯を掲げるむき出しの白い二の腕は、炎を映して山吹の彩。そのなまめかしさが、胸の奥の情緒を揺さぶる。
「あ、うん、そうだね」
一瞬だけ見とれていた。その不自然な間を誤魔化そうと、急いで口にした台詞。だが、まったくもって気の利かない台詞だった。
相変わらずの霊夢の微笑に気後れして、つい視線を外してしまう。
魔理沙と同じぐらいの歳だろうに、霊夢の所作は思わぬところで女性らしさを強く引き立たせる。
そしてまた、その部分を見つけようとする近頃の僕。
「これ、霖之助さんのノルマね」
突っ立っている僕に向けて、これ見よがしにとっくりを持ち上げてみせつける霊夢。
その瞳の奥には、悪戯っぽい笑み。
「でないと、また貧乏クジを引くわよ」
そうだ、前回は酔いつぶれた魔理沙の介抱をするはめになったのだった。
意味の分からぬ陽気さで、僕の頭をぺしぺしと叩く性質の悪い酔っ払い。どこの霧雨道具店が教育を間違えたのだと思いつつ、妹同然の少女の額に冷たい手ぬぐいをあてがって酔いが覚めるのを満ち続ける。
結局、アリスが代わりを名乗り出るまで、宴会を楽しむどころではなかった。
そう、酔っ払いにシラフで付き合うのは愚の骨頂。
「ああ、承知したよ」
その手からとっくりを恭しく受け取る。
霊夢は、僕の様子にくすりと笑みをこぼして、視線をふとそらした。
視線が向かった先は、賑わいから少し離れた一角。
「あなたもよ、早苗。全然進んでないじゃないの」
「え、そ、そうですか?」
慌てて応えたのは、所在無げに座り込む一人の少女。
年恰好は霊夢と同じぐらいだろうか。かがり火の明かりが届くぎりぎりの所にいて、ここからではよく見分けがつかない。
印象に残るのは、霊夢の巫女服に似た彼女の格好。霊夢の赤に対して、涼しげな青の衣を身にまとっている。
境内木に寄りそうに座り込む様子は礼儀正しく、弦月の光のように朧な印象を残した。
豊かな髪を一房結ぶ、楚々とした美少女。
初めて見かける顔だった。
「彼女は?」
僕の当然な疑問に、霊夢は何を思ったのか口の端にいやらしい笑み。
「早苗、この森近霖之助さんが『そこの美しいお嬢さんのお名前を伺いたい』だって。教えてあげて」
この酔っ払いの妄言はひどい。
言ってない要素を加えた上に、あからさまに答えを口走っているのは気のせいか。
「え、えええ!」
早苗とやらは狼狽している。無理も無い。
軽薄そうな発言を捏造されて、彼女にとって僕の第一印象は最悪ではないだろうか。
もはやどうしようもない推察をかみ締めつつ、少女が落ち着くのを待つ。
一呼吸置いて、耳に赤みを残したまま少女は名乗った。
「その……東風谷早苗です。早苗でかまいません」
東風谷早苗。聞き覚えのある名前だった。
「守矢神社の巫女さんだったね」
妖怪の山を舞台にした一騒動。
事の顛末は、魔理沙から自慢げに聞かされてはいた。その9割方は嘘、大げさ、紛らわしいとして割り引くとして、守矢神社や近所の湖ごとやってきたという奇跡は誰もが知るところ。
けれども、その奇跡の中心人物と知られる少女は、困ったような笑顔を浮かべる普通の少女に見えた。
「正確には風祝といいます」
やんわりとした訂正を受けて、霊夢と見比べる。
失礼ながら、違いをいまいち発見できなかった。
「風祝ってなんだい?」
我ながら不躾な質問。しかし、早苗は気を悪くした様子もない。
「はい、風祝の風はそのまま『風』を意味し、祝は『そうあれかしと祈る』という意味です。風を鎮めることが役目となります」
よどみのない説明だった。
恐らくは問われることに慣れているのだろう。
先ほどとは違う毅然とした物言いで続ける。
「他にも守矢神社には五穀豊穣や安産祈願などのご利益がありますので、ぜひご参拝くださいね」
せっかくのお誘いはありがたいが、五穀豊穣や安産祈願は僕にはご縁がないような。
とはいえ、生真面目な視線を向けている彼女を悲しませるつもりは毛頭なかった。
「そうだね。機会があったら、是非」
極々、当たり障りのないことを口する。
「霖之助さん、参拝しごろな神社が目の前にあるんだけど」
その不貞腐れた声は霊夢。
目の前で他の神社の営業活動をされては口を挟みたくもなるのだろう。
「博麗神社のご利益次第だね」
僕に言われて、霊夢は少し考え込む。
「確か、商売繁盛……」
思わず、視線を拝殿に向ける。そこには、宴会の熱狂から取り残された傲然屹立たる賽銭箱。頑なまでに参拝客を拒む不可侵の佇まいだ。
商売繁盛。残念なことに、説得力の欠片もない。
「いや、香霖堂はあんまり繁盛してもお客さんに対応できないからね。このままでいいよ」
とっさに口をついた心にも無い台詞。曲がりなりにも客商売を続けている成果だろうか。
「香霖堂?」
聞き慣れないだろう単語に小首を傾げたのは早苗。
「霖之助さんのお店のことよ。如何わしいものを並べて、たまに売ったりしているの」
店主を差し置いての霊夢の説明は、とても許容しがたいものだった。
百歩譲って「たまに」は認めよう。
だが、いかがわしいとはなんだ。
それに君の言葉に従えば、君の巫女服やらお払い棒やらも「如何わしいもの」の一員となるのだが。あと、たまにでいいから金払え。
……まあ、それは放って置こう。霊夢もいい感じに酔っ払いで話が通じるか不安だし。
放置できないのは、僕を見る眼差しが訝しげになりつつある風祝の少女。現在、僕の印象は不審者へと、まっさかさまに転落中ではないか。
「僕のお店で扱っているのは、幻想郷の外や冥界などの珍しい道具だよ」
「外の道具ですか?」
途端に早苗の瞳に興味の色彩が宿る。
「そう。ただ、使い道がわかっても使い方がわからないものが多いのだけどね。他には、霊夢に頼まれて巫女服やらお払い棒なんかもあったりする。君も、ご入用なものがあったらいつでもどうぞ」
「はい、今度人里におりた時に必ず行きますね」
商売人としてはぎこちない営業トークだったが、早苗は暖かな微笑みで僕の話を聞き入れてくれる。
「それにしても、道具屋さんが霊夢さんの巫女服まで用意しているのは少し驚きです」
早苗が小首を傾げるのもわかるが、答えは簡単。
「どこぞの物ぐさ巫女が、どうせなら一式を用意しろということでね」
肩をすくめて言ってのけると、早苗も意図を読んでくすくすと笑い声をもらす。
「うっさい」
僕の背中に、物ぐさ巫女の抗議。
いつもは口調だけは年長者に対する礼儀をわきまえる霊夢も、酔いが深まりつれて取り繕いをなくしつつあるようだ。
そんな霊夢にすら可愛げを感じてしまって、自分へのため息をこぼす。
飲む前に、何を酔っ払ったようなことを考えているのか。
僕は苦笑いを霊夢に返して、手近な場所に座り込んだ。
傍らには、霊夢から渡されていたとっくり。
湯呑みに注ぎ込もうと手を伸ばす。
だが、先に白くしなやかな手が先にとっくりを拾い上げていた。
持ち上げられたとっくりを目で追うと、とっくりの口を傾けてお酌をしようと待ち構える早苗の姿。
「あ、気を使わせて悪いね」
「いえいえ」
早苗は僕の恐縮に気のいい微笑で応じながら、少しぎこちない手つきで注いでくれた。
その少女の真面目さがにじみ出る仕草を見ていると、自然と僕の目じりも下がらざるを得ない。
僕は湯のみをあおる。喉を通り抜ける熱さ。アルコールに焼かれた吐息が心地よくこぼれる。
いつもよりも楽しく酔えそうな予感を、僕は感じていた。
通常なら、宴もたけなわでございますがと誰かが挨拶をするような時刻。
無論、博麗神社に居並ぶものどもには、そんな常識は存在しなかった。
ひょうたんを抱えて陽気にはしゃぐ鬼の子は別格として、他の面々も酔いつぶれる者が見かけられない。
恐らくは、すっかり酒宴慣れしてしまったのだろう。
自らの酒量がわかれば、強弱関係なく付き合えるのが宴会。
そんなわけで、ふらふらになっているのは宴会慣れしていないと思しき隣の早苗のみだった。
黙々と飲み続けていたからてっきり酒豪だと思っていたのに、急にペースが落ちたと思ったらノックダウン。
はああと、熱っぽい吐息を吹き上げている。
「大丈夫かい?」
何度目になるのかわからない言葉をかけて、早苗の意識が昏睡に落ちていないか探る。
すでにその手からはお酒を取り上げられていて、僕が汲んできた井戸水を代わりに飲ませていた。
「は、はい、なんとか」
声色を震わして答える早苗。
あまり大丈夫そうじゃない応答だが、先ほどまでの青い顔と比べると赤みが差して、幾分かの落ち着きを取り戻した様子をうかがわせる。
ふらふらしていた体にも徐々に芯が戻ってきたようだ。
明日の二日酔いが今から気の毒ではあるが、当面の危機は去ったと見なしておこう。
そうなると気になるのは、早苗の飲み方の疑問。青い顔になってなお辛そうにお酒を口にしようとしたその行動だ。明らかにこの少女の表情は、酒が苦手だと白状しているというのに。
僕は遠慮なく疑問をぶつける。
「なんで、あんなに根を詰めて飲んだんだい? 飲めなかったら、飲まなくてもいいと僕は思うよ」
「いえ、その……皆さんに合わせて飲めるようになりたくて。慣れれば、お酒に強くなれるんですよね」
ぎこちない照れ笑いを浮かべてみせる早苗。
「信仰を説く上でそういうお付き合いもできるように変わっていかないといけないのかなと、少し頑張りすぎました」
何という健気な答え。
でも、その答えは小さなため息を誘う。
「僕にはよくわからないけれども」
呟きながら、それでも信仰のために無理な努力をするこの少女について想像する。
新しい世界にきて、一から人間関係を構築しなければならない状況。
おそらく、今の彼女は新しい居場所に受け入れられようと必死なのだろう。
「そんなに焦らなくていいと思うよ。君が今獲得しようとしている信仰や、その土台となる信用は努力してすぐ手に入るものじゃない。長い付き合いの上に、少しずつ積み上げるものだ。長期戦は、まず無理をしないことが大切」
どことなく危なげな少女の生真面目さに、僕は年寄りじみた忠告をせずにはいられない。
早苗は心地よい夜風に目を細めつつ、僕を不思議そうに見つめている。
「僕は客あしらいが下手で、迎合する努力もしないものだからお客さんを怒らせてばかりだ。でも、幻想郷で僕の店ほど変わったものを並べているところはないという認識で、気を取り直したお客さんがたまに冷やかしにきてくれる。無理をせず、ただ好きに続けていた時間が、いつの間にか信頼に変化したんだ。君も、無理して飲兵衛に付き合う必要はないと思うよ」
年少者を諭すなど、森近霖之助にとって未曾有の行為ゆえに我ながらとりとめもない発言だ。
だから、一言余計になる。
「ただ、程度問題ではあるね。僕の場合はあまりにも長年の偏屈を変えなかったせいか、阿求から『店から出たがらず、一人で考えこみがちな奴』と書かれたよ。でもまあ、事実だから仕方ない。この宴会だって本当はでたくなかったのに、無理やりつれてこられてしまった」
冗談めかして、阿求の書の一節を引用する。
すると、それまで眠たげな瞳でじっと僕の話を聞いていた早苗が緩慢に小首を傾げて、親しげな笑み。
「結局、森近さんも無理をしてお付き合いをしているんですね」
酔いに解れたあどけない口調。
早苗が深く考えずに疑問を口にしただけということはわかる。
でも、僕は考え込んでいた。
宴会への魔理沙の誘いは強引だった。しかし、声高に拒否を示せば、魔理沙には不貞腐れながらも納得する素直な部分がある。完全な無理強いではなかった。
古道具に囲まれた穏やかな一時。それを代償にして僕をここまで動かしたのは、決して強制だけではない。
僕には、ここに来たい理由があった。
不意に、一人の人物が脳裏に浮かんで首を振る。消えうせる紅白の残像。
「ええと、それはだね……」
答えをどんな言葉で誤魔化せばいいのか、着地点を見出せないまま言葉を切り出す。
だが。
ふと肩に感じた、かすかな重み。
恐る恐る肩口に視線を向けると、早苗の頭がのっていた。
そのまま、くーくーと、安らかな寝息。霊夢よりも幾分豊かな胸がかすかに上下している。
むき出しの肩が僕の二の腕に押し当てられて、すこしむずがゆい感触。
僕はそんな早苗の寝顔を、なぜだがほっとした心地で見入っていた。
「あらあら」
我に返らせたのは、笑いを押し殺したような霊夢の声だった。
この状況をどう曲解されるかは明白。
一言、断っておこうと振り向き、僕は言葉を失った。
彼女が背に負うは朧月。淡い光がやわらかな輪郭を描き出す。
凛と佇む、すっきりとした背筋の伸びたシルエット。
鎮守の森を吹きぬける夜風に、黒髪がさらさらとそよいだ。ひそやかな月明かりを受けて、艶やかな光の輪。
巫女という言葉の定義を思い起こさせる、息を飲むような佇まい。
それでも、瞳だけは歳相応の悪戯っぽい眼差しで、静かに僕を射抜く。
その視線が僕の顔から早苗の寝顔に流れて、霊夢の唇が物言いだげな微笑を形作った。
変な勘違いをさせてはいけないと、霊夢に届くよう声を張り上げて状況を説明したい衝動が芽生えて、ざわめく。
しかし、僕の肩にはよりかかって安らかに眠る早苗。幼子のような無防備な寝姿。起こすことは気が引けて、座り込んだまま霊夢を見上げていた。
何も言えないまま、少しずつ心に広がっていく狂おしさ。
それはじくじくと胸を苛む。
耐えかねて、僕は霊夢から視線を外した。
霊夢は反論がないことが面白くないのか、肩をすくめて踵を返す。
その後姿を無言で見送りながら、僕は認めざるを得ない。
畏れ、敬うべき博麗の巫女。
けれども僕に宿る彼女への感情は、どうしようもなく心を駆り立てられる熱だった。
僕は、静かに寝入る早苗と同じくらい、深く息をはきだした。
暗がりに朱を描く鳥居のずっと遠く、天蓋を覆う満天の星空を眺める。
そのまま涼やかな夜風が体と心に染み入るのを待っている。
「ん」
時折、むずがるような早苗の寝息を聞きながら、僕はトチ狂った心の熱が冷めるまで待ち続けた。
佳境に入る宴会の賑わいの外で、僕たちはひそやかな沈黙を守り続けている。
数日後の昼下がり。
この前まで夏本番を思わせた夏の気配は一時撤退し、空にはどんよりとした雲が浮かぶ。
僕はいつものように閑散とした店内を放っておいて奥の部屋にこもっていた。
一見無用心に見えるが、お客がくれば扉の呼び鈴が騒々しい音を奏でるし、泥棒さんがこっそり来店したところで、この雑多に並んだ店主すら価値がわからぬ道具の森から金目のものを盗み出すなどできようか。森から一枚の木の葉を探し出すのと同じこと。
心配は魔法使いと巫女の二人組ぐらいなものだが、僕は彼女らにはほとんど無条件降伏なので抗うどころではない。
そんなわけで、僕だけの空間とした奥の部屋。一人、読書で時間をつぶしている。
とはいえ、今日の僕の有様は読書という定義から外れていた。正確には言うのならば、本を手にしたまま考え事に耽っている。本を手にしてから、一ページも読み進んでいなかった。
考えて込んでいたのは、宴会の時にはっきりと自覚した霊夢への熱。
恋慕。
寿命の異なる人間の少女、それも博麗の巫女に心惹かれるなど、理性はその滑稽さをあざ笑っている。
第一、自分は誰よりもそんな劣情からは遠くにいるはずだった。
僕の情熱は全てが道具に向かって、それ以外のものは興味の色彩が薄い、灰色の世界のはずだった。いつから、僕の世界に鮮烈な赤と白が入り込むようになっていたのだろう。
初めて会った頃は想像もつかなかった。
数年前、魔理沙が「客を連れてきてやったぜ」と恩着せがましい台詞とともに連れてきた少女。
彼女は今より幼くて、僕は博麗の巫女という存在自体にうっすらと興味を抱く程度だった。
だが、いつの頃からか霊夢が気にかかるようになる。
人々から異変の解決を託されるという、年齢不相応の重責。にも関わらず、淡々と物事にあたる精神の大らかさと、面倒くさそうに事も無げに済ます実力。
興味が好意に代わり、そして少しずつ変容していく。
長年抱くことの無かった想い。それだけに、気がつくのが遅れた。
もっと早く気づいていれば、自分の意外な青さに苦笑をこぼしつつ、芽生えたばかりの想いを心の奥底へ押し込むことができたかもしれないのに。
「ごめんくださーい」
妄想を押し破ったのは、玄関口からの控えめな呼びかけ。
僕は手元の本にしおりを挟んで立ち上がる。
「はいはい」
ぞんざいなお出迎えの声をかけながら、店内に顔を出す。
そこには恐らく一見のお客さん。
店内を物珍しげにきょろきょろと見渡していた。
とはいえ、初顔ではない。その少女の顔立ちと身を包む巫女服には見覚えがある。
東風谷早苗だった。
昨日は酔いのためかおっとりとした風情だったが、今の彼女は背筋を凛と伸ばして闊達な印象。これが風祝たる普段の彼女なのだろう。
まったくもってどうでもいい雑感にふけりつつ、早苗を出向けるべく店に出る。
「いらっしゃい」
声をかけると、こちらへ振り向く。好事家好みの珍品に囲まれ、やや緊張気味の早苗の表情が僕を見て表情を緩めた。
「お邪魔してます」
淑やかな微笑を浮かべて、礼儀正しく挨拶。色づいたアヤメの可憐さを思ったのは、彼女が身にまとう深い青色の衣のせいだろうか。
早苗は両手を前にそろえて、軽くお辞儀。
「先日はご迷惑をおかけしました」
やっぱり、そのことか。
少女の相変わらずの律儀さに、僕は微苦笑を浮かべてしまう。
「わざわざいいのに」
「いえ、神奈子様からもきちんとお礼を言うようにと言われましたし、私もそうしたかったんです」
神奈子様?
初めて聞く名前だが、薄々察しはついていた。僕の脳裏をよぎるのは、宴会終了後、安らかに眠る早苗を背負って立ち去った妙齢の美人。宴会で奮戦し、あえなく力尽きた早苗へ投げかける優しげな眼差しが強く記憶に残っている。
僕は魔理沙の両親を思い出す。彼らも同じ眼差しをしていた。幼い愛娘の成長を見守る慈しみの眼差しを。
たまには魔理沙に里帰りを進めようかなと、ふと妙な老婆心が芽生える。霧雨道具店から勝手に独立した僕が言えた義理でもないだろうに。
気がつくと、ぼんやり物思いにふける僕を早苗の不思議そうな瞳が見つめいた。
「ああ、確かにお詫びを受けたよ。これでチャラだね」
僕が笑いかけると、早苗も同じくバツの悪い笑顔。
あまり親しくない相手の肩にもたれて無防備に眠り、一方はそのまま起こそうとしなかった。
今考えると、お互いかなり気恥ずかしい。
僕は妙な沈黙が降りるのをはばかって、取り繕うように言葉を続けた。
「まあ、せっかくだから色々と見ていったらいい」
「は、はい、そうさせてもらいます」
僕の言葉は渡りに舟だったらしい。
早苗は店の一角へ、物珍しげな視線を向けていた。
陳列された可愛らしい絵柄のティーカップに興味を惹かれたらしい。
そのコーナーに早苗が惹かれたのはわからないでもない。訳のわからないものが幅を効かせるこの香霖堂で、このコーナーは女性の好みそうな小物を中心にまとめられている。はっきりいって、ここ以外に年頃の女性の興味を惹けるものはないだろう。
とはいえ、まっとうな雑貨を置くスペースはあまりない。
そこにあるのは、うちのお得様で紅茶を愛好する紅魔館の方々に合わせた、それなりの値段をつけたものばかり。彼女らは無駄に金持ちな分、無駄に高価なものを喜ぶ。
恐らく値札を見たのだろう。そっと、棚にティーカップを戻した早苗。
あくどい商人にぼったくられたくなかったら、品質、品揃えとも安心保証の霧雨道具店を本気でお勧めしたい。
早苗は若干の未練を振り切って、となりの一角へ。
「わ」
小さな呟きをもらす。
そこは、僕が拾ってきたもののうち使い道の分からない代物を並べた一角。ただ、拾ってきた順に陳列して商品に名札もつけていない混沌の領域だった。
僕ですらそんな印象を受けるだけに、几帳面そうな早苗にはどう映ったのだろう。
僕なら未知の道具を前にして、この道具の使用方法はなんだろうと一品につきに2時間は妄想できる自信はある。だが、早苗のような年若い女性にはあまり興味がわかないようで、途方に暮れた眼差し。
「……本当に、色々あるんですね」
ぽつりとつぶやいて、その一帯を眺めていた。
やはり、興味を引くものはなかったようだ。
ふと、僕の心にわきあがる残念だなという衝動。思ったよりもこの早苗という少女をより気に入ってしまったらしい。
自分への苦笑を浮かべながら、手元の本に視線を落とす。
だが、読書は一ページも進む間もなく遮られた。
「森近さん、これっ!」
勢いこんだ早苗の声。
何事かと顔を上げると、早苗が目を見開いて陳列棚を指差している。
その白く綺麗に反った指先が示すのは、こぶし大の平べったい道具。確か、この前拾ってきた携帯電話とかいう代物だ。
僕の能力で名前と「遠くの者と会話できる」用途まではわかるが、使い方はわからない。二つ折になっている構造は面白いが、開いてみたところで並ぶ1から9までの数字といくつかの記号が彫られたボタンと、ひび割れて反応もしない灰色の画面。試しにその画面に向けて「魔理沙の幼児体型」と話しかけてみたところで、襲撃してくる黒い影もあらわれない以上、使用不可といった有様だ。
最近、よく拾うようになったことが妙に気になる機械ではあったが、早苗をここまで興奮させる代物なのだろうか。
早苗は携帯電話を拾い上げ、小首を傾げる僕へ突きつける。
「あの、私のケータイがこれと同型なんです!」
「すると、やはり君のものも画面が割れているのかい」
「違います」
冗談は真顔で封殺された。
きっと彼女は僕が冗談を口にしたことも気づいていまい。
少しばかりやるせない気持ちでたそがれていると、少し落ち着いてきたのか早苗の遠慮がちな台詞が聞こえてきた。
「あの、ちょっと電源つけてみていいですか?」
「……ああ、どうぞ」
電源というのがよくわからないまま僕は頷く。
商品を弄ること許したのは、先ほどまでの取り乱しようを恥じ入る早苗が可愛いからだけではなく、この使い方のさっぱりわからない機械について知ることができるかもしれないというある種の打算もあった。
早苗は携帯電話を開いて何やら指先で操作しだす。確かに同型をもっているのだろう。指の動きに迷いがない。
指捌きに見とれていると、早苗の顔をかすかに白く照らす光に気づいた。
光源は手元の携帯電話か。淡く滲む光。携帯電話のふちを、ぼうと浮き上がらせている。
画面を見つめていた早苗の口元に満足げな笑み。指先が動くと、いかなる操作かその光は消えうせていた。実に興味深い現象。
「森近さん」
携帯電話を折りたたみ、僕に向き合う早苗。
「あの、森近さん。この携帯電話はおいくらになりますか?」
早苗の真剣な眼差しに射すくめられて、僕は悩んだ。
いくらにしようか、と。
正直、まったく売れることを想定してない商品だっただけに僕は困りきっていた。基準となるものが思いつかない。
「あの、中にあるバッテリーだけでいいんです」
悩んでいると僕が渋っていると思ったのか、早苗が言葉を重ねる。
だが、僕の興味を引いたのは耳慣れない単語だった。
「バッテリー?」
「はい。この機械を動かすもの……ええと、何ていったらいいんでしょう。燃料というか……」
「ああ、なんとなくわかるよ」
言わんとすることを飲み込む。部屋の片隅、夏の日差しに埃を浮かばせる愛しのストーブに、視線をちらと向けながら。
「ですが、幻想郷ではバッテリーを充電……もう一度使えるようにすることができないことを忘れて、その、使いきってしまったんです……」
早苗にとってそれは痛恨事なのだろう。目を伏せ、がっくりと肩を落としている。
なるほど、事情は了解した。
ついでにそいつの値段も今、決まった。
「それは捨てる予定だったから、ただでいい」
「え?」
僕の言葉に、驚いた表情のまま固まる早苗。
悪いですよとか早苗が言い出す前に、僕はその機先を制する。
「その代わり、携帯電話とやらの使い方をもっと教えてほしい」
奥の倉庫にはまだいくつか携帯電話が在庫にある。
そのための投資だと、自分への言い訳。
今更ながら、商売人に向いていないという知り合いの指摘について抗弁のしようもない有様だが。
「あ、ありがとうございます」
咲き誇る白牡丹のような満面の笑顔を見ると、比較的どうでもよくなる僕だった。
「これは一個だけでは会話できません。会話したい相手に持たせて、この携帯電話越しに会話するんです」
早苗の携帯電話教室が始まった。生徒は僕一人。
「電話が通じたら、もしもし早苗ですがといった具合に会話します」
「もしもし?」
『もし』という呼びかけはよく聞くが、二度繰り返す呼びかけは初耳だった。
何か携帯電話の作法なのだろうか。
僕は早苗の説明を待つ。
「電話が伝わった時、遠くにいるはずの人の声が聞こえてくるから、みんなひどく警戒したそうです。物の怪の仕業ではないかと」
それは、まさに今の僕の状態ではないだろうか。わからないでもない反応だ。
僕がおとなしく早苗の話に聞き入っていると、話しているうちに興にのってきたのか、早苗はひとさし指を立て得意そうに語りだす。
「当時の外の世界は今より妖怪が身近な存在だったので、妖怪に関しても色んな言い伝えがありました。その中の一つに『妖怪は同じ言葉を繰り返し使えない』というものがあったそうです。ですから、『もし』という呼びかけを二度続けてお互いが物の怪の悪戯ではないと確認し合う習慣ができました」
「ふーん」
いまいち理解できてない僕の返答に、早苗の笑顔がこわばる。
恐らくはとっておきのトリビアだったのだろう。外の世界で友達に聞かせたときは「おー」と感心されるぐらいの。
薄い反応を返してしまって申し訳ないが、今から改めて驚いてみせるのも不誠実だろう。
だが、若干重くなった空気を払う必要を感じる。
「それで、その携帯電話で誰と会話するんだい」
本当は聞きたいわけではなかった。場をつなぐため、早苗に次の話題に向かわせるための呼び水。
だから、早苗の困ったような表情をおしてまで聞きたいわけではなかった。
「あ、聞いてみただけだから気にしないでくれ」
「いえ……会話自体は恐らく幻想郷では無理だと思います、メールも、無理でしょう」
アンテナが……と、早苗が続けたものの、ため息にまぎれて聞こえなくなる。
「ですが、携帯電話には会話だけではなく文字をやり取りする機能があります。それは受け取ったメッセージがずっと残っていて、それをたまに読み返したくなるときがあるんです」
そう言って、愛おしげに携帯電話を見つめる早苗。
僕には彼女の抱いている感覚はよくわからない。
ただ、彼女にはこの道具が必要で、道具を生かすことができる。それだけで十分だった。
「わかった、色々と教えてくれてありがとう。その携帯電話は僕がもっていても意味の無いものみたいだし、是非、持っていってくれ」
感謝をこめた早苗の眼差しがこそばゆい。だが、お礼を言いたいのは本当はこちらの方だ。
僕の手ではどうしようもなく、ただ埋もれるだけの道具が命を吹き込まれようとしている。まさに道具屋家冥利というもの。
お辞儀して立ち去っていく早苗の後ろ姿を見送ると、商品が売れたとき以上の喜びがこみ上げてくる。僕は商売人以前に一介の好事家であるらしい。
霊夢のことを一時忘れられるほどの充足感に、立ち込めたモヤモヤが久しぶりに晴れた。そんな一時だった
早苗が我が香霖堂に再来訪したのは、律儀な性格を証明するかのようにその翌日。
「森近さん、できました!」
息を弾ませて成功を報告してくる。
いらっしゃいの言葉を言い損ねたまま、早苗に視線を向けた。
「すいません、お邪魔します」
別に挨拶はいらなかったのだが、畏まる早苗に僕は軽い会釈を返す。
それよりも僕が事の顛末が知りたい。
「できたというと、昨日の件だね」
昨日渡した携帯電話とは色違いのそれを、僕は見つめる。
早苗は返事代わりの笑顔を浮かべて、その手の携帯電話を掲げて見せた。
華奢な二の腕と腋の綺麗なラインが真正面に見えて、僕の脳裏によぎる霊夢の姿。
かあと頭に血が昇って、視線を手元の帳簿に落として誤魔化した。
早苗はそんな僕の様子に気づくこともなく、僕の方へ静謐の足取りで歩み寄る。
顔の赤みが引けていることを願いつつ、手近な椅子を引き寄せて早苗に勧めた。
「ありがとうございます」
遠慮がちな微笑みの早苗。そんな慎み深い表情を見ていると、やはり霊夢とは違うのだなあと少しずつ落ち着いていく心。
そこでようやく、客人に飲み物一つ勧めていない有様に気づいた。
「コーヒーと紅茶、どちらがいいかな?」
「いえ、お構いなく。ちょっと寄らせていただいただけですから、本当にお気を使わないで下さい」
腰を浮かしかけた僕を、懸命に制する早苗。
案外、頑固な少女に苦笑しながら、僕は腰を下ろして早苗と向き合った。
早苗は、僕の前に自分の携帯電話を置く。
その可愛らしいピンクの携帯電話は、昨日と同様、何の反応もその灰色の画面に映し出してはいなかった。
「今はバッテリーを外しているんです。入れているだけで、減っていくので……」
最初の失敗が堪えたのか、苦笑する早苗。
よほど大切な『やり取り』とやらが入っているようだ。
「はい、この中には幻想郷へ行く私を見送ってくれた言葉が入っているんです。絶対に忘れたくない思い出が。だから、森近さんにはすごく感謝しています。いつでも読み返せるというだけで、なぜかほっとするんです……」
早苗の嬉しそうな様子からもその大切さは十二分に伺えた。
その喜びに僕が少しでも力添えできたなら嬉しいが、気がつけば早苗の表情にはいつしか陰がおりていた。
じっと携帯電話の淡いピンクを瞳にうつす。
「でも、それほど大切だったのに、この目で確認できなくなってから、友達のくれた言葉の細部が記憶から少しずつおぼろになっていったのはショックでした」
むき出しの白い肩を心持ち落とす。
「これから、外の世界のことをこうやって忘れていかなければならないのかな。そう思えて、寂しかったですね」
早苗の苦笑。
大切なものだけに、失われるのは怖かったのだろう。表情は穏やかだったが、悲しみがわずかにひそめた形のよい眉に浮かんでいた。
そんな早苗にかけてやるべき言葉があるだろうに、僕には何も思いつかない。
情の機微に通じていない自分が実にもどかしい。
「まあ、仕方ないんじゃないかな」
あまりに淡白な僕の慰めは何の実も結ばず、早苗はそっと目を閉じる。
「そうだとしても、思い出が淡くなる度、自分がどうしようもなく薄情な人間になった気がして……どんどん思い出が薄れて、そのうち大切な友達だったことも忘れるのでは、と」
不意に僕は、出会い、時の長さに隔てられていったかつての知人たちを思い出す。香霖堂という自分の生き方を見つけるまでの不精な僕の日々。そんな怠惰な毎日を彩ってくれた存在なのに、すでに思い出すのは笑顔や言葉の断片ばかり。同じように霊夢や魔理沙、そしてこの子もいつかはぼんやりとした追憶にかすんでしまうのだろうか。
僕にもわずかながら理解できた、早苗の忘れていく悲しみ。
だから、思わず次の質問を口にしていた。
「不躾な質問になるけど、覚えているからこそ、かえって辛くなるときってないかな?」
もう二度と会えないとわかっていても、どうしても会いたいという理屈を超えた衝動。その想いに胸を焼かれないためには、未練を完全に切り捨てる必要があるのではないか。もしくは、最初から人とあまり深く関わらないで生きた方がいいのではないだろうか。そう、僕のように。
僕のデリカシーのない問いかけに、早苗は嫌がる素振りもみせない。
しばらく考え込んで、微苦笑とともに語りだす。
「本当はここに来るときは、こういう外の世界のモノはなるべく置いていこうと考えていました。外の世界にあって幻想郷では使えなくなりそうなものは、ただ未練になるだけだと」
早苗のため息は、そのときの葛藤が再び胸をよぎったからだろうか。
だが、早苗が悲しみに沈んだのはほんの一瞬。
まっすぐな瞳を僕に向けて、はにかむように笑いかけてくる。
「でも今は違います。たとえ詳細を忘れても、私を大切に思ってくれている人がいて、そのために言葉を残してくれた人がいる。そういう人がいたということを、携帯電話を見る度に思い出せる。それは幸せなことなんですよ、きっと」
毅然とした少女の居住まいに、僕は見とれていた。
やれやれ、先日とは違ってずいぶんと大人だ、この少女は。いや、僕がただ曖昧に歳を重ねていただけかもしれないが。
そんな勝手な感慨にふけっていると、早苗は自分の携帯電話を拾い上げ、立ち上がる。
「すいません、すっかり話し込んでしまいました。お邪魔ですよね……」
「いや、まったくそんなことはない」
恐縮したように頭を下げる早苗に、僕は手を振って否定する。
だって、お客さんなんて君以外、誰もいないじゃないか。
悲しい事実を心の中で指摘するものの、僕の心に生まれかけた憂いは次の早苗の言葉で霧散消散した。
「その……森近さんはじっくり話を聞いてくれるので、ついつい長居してしまいました」
はにかんだ笑みの早苗。
「そうかい」
そっけない言葉とは裏腹に、僕は年甲斐もなく照れていた。
思えば、早苗の同年代の知人は霊夢に魔理沙といったところか。いずれも自分のペースで相手を引っ張り倒す連中だけに、確かにゆっくり話を聞く奴らじゃないな。
きっと、彼女らに比べれば話やすいということだろうが、持ち上げられて悪い気はしなかった。
「あ、ちょっといいかな?」
だから、よせばいいのに帰り支度を始めた早苗を、ついつい呼び止めてしまった。
早苗は懐に携帯電話をしまいこんだ体勢のまま、僕の方へ振り向く。穏やかな笑顔で僕の言葉を待っていてくれていた。
「ええとだね。良ければ、これからもたまに顔を出してくれないかな。外の道具について色々と教えてもらえたら嬉しいのだが」
お願いにしては不躾な僕の言葉に我ながら苦笑する。
このお願いの意図は二つあった。
言葉通りのお願いの意味と、この興味深いお嬢さんに常連になってもらいたいという言外の希望。
純粋に話していて面白い少女だからね。
だが、変に意図を読み取られていないか、もしくは不躾な頼みが早苗の機嫌を損ねていないか、恐る恐るその表情を伺う。
目の前の少女の表情は、ほろこぶような笑顔。
「はい、喜んで」
その明るい声色にほっと胸を撫で下ろす僕だった。
屋内にはじっとりとした暑さが淀んでいた。まとわりつくような蒸した暑気。
梅雨も過ぎて、夏の気配が濃厚に漂いはじめるこの季節。
夏の始まりの暑さは夏本番と比べると左程でもないが、暑さに慣れていない体には中々堪える。僕はだらしなくへばっていた。
そんな最近の僕にとって、一種の清涼剤となっているのが、早苗の律儀さ。
信仰を説きに里に降りてくると、帰り際に必ず立ち寄ってくれる。
「ごめんください」
今日も聞き慣れた早苗の声が店内に響く。
昼下がりの日差しを背に、早苗の細いシルエットが浮き上がる。開け放たれた扉からはみんみんと蝉の声。
早苗とともに涼やかな風が流れてきて、僕はほっと息をついた。
「いらっしゃい」
夏の盛りを知らせるやかましい音に負けないよう、僕は声を張り上げていた。
にっこりと笑いかけて、店内に置かれた品々の間を抜けて歩みよる早苗。
僕が無言で示した椅子の上に、ぺこりと会釈をして座った。
「暑いですね」
茹だったような僕の顔を見て、同情するように微笑みかけてくる。
「これからもっと暑くなるだろうさ」
憮然として、手ぬぐいで額に浮かんだ汗を拭う。
僕の仏頂面が面白いのか、微笑みの色を濃くする早苗。
だが、そんな早苗の首筋にも光る汗のしずく。鎖骨を伝って胸元へ流れ落ちていく。
その感触に不快を覚えたのか、早苗の巫女服の胸元をつまみ上げ、ぱたぱたと仰ぎだしていた。
何気なく見てしまった胸元の肌の白さ。思わず視線を外す僕だった。
「君からこの前説明を受けた扇風機が動けばいいのだけどね」
誤魔化しのため、あたりさわりのないことを口にする。
「本当に電力さえあれば過ごしやすくなると思うのですが」
心から残念そうに早苗が口にした電力。それがどういうものかわからないが、外の品々を使うための最大の壁となっていた。
その壁をいともたやすく乗り越えられそうな妖怪を一人だけ知ってはいたが、頼みが聞き届けられるかどうかは相手の気紛れ次第。あまり借りをつくるには気がひける相手なので、触れない方がいいだろう。
「暑さだけではなく、毎日の生活も大分楽になると思うんですが」
早苗は呟きながら、視線を店内に放置している『二層式洗濯機』とやらにロックオン。そんな様子を見ていると何らかの便宜を図りたくもなるが、そんな下心のあるお願いをあの隙間妖怪が聞き入れるとは思えなかった。
ふうと、暑さにうだった息を二人同時に吐き出す。
とりあえず、この暑さを少しでも打開しなくては。
「ああ、そうだ。代わりに、涼しくなるものを出すよ。少し待っていてくれ」
昨日から裏の井戸に冷やしていた今年最初の西瓜。
僕はそれを思い出して立ち上がろうとすると、気を使わないでくださいと、腰を浮かしかける早苗。
「いや、そういうわけにはいかないよ」
手で制され、ぺたんと再び座りこむ早苗。
以前はそれでも恐縮して、何か手伝えないかという視線で僕を見つめていたが、今は打ち解けてきたためか大人しく座って僕に任せてくれる。
僕は縁側でサンダルを履き、中庭を抜けて井戸の方へ。
井戸の暗がりはひんやりとしていて、ひっぱりあげた西瓜もまた瑞々しく、よく冷えていた。
後は流しのまな板へ。まず、西瓜の縞と縞との間に包丁を差し込み、一息で押し切る。真っ二つに頂上から割れる西瓜。この場合、縞と縞の間から包丁を入れるのがポイントで、種が目立たなくなるから断面が綺麗に見える。
以前、霊夢に適当に切った西瓜を出してあげたら、そのことでやたらと文句まじりの講釈を受けたことがある。それ以来気を配っている部分だが、今思うと食べさせてやって文句を言われたことになる。腹を立てる資格は十分にあるのではないか。
それなのに憤りがまったくわいてこない自分。
はあと、ため息を重ねながら西瓜を切り分けていく僕だった。
一通りできたところで、西瓜を器にのせて店内に戻る。塩の小瓶はポケットに。
「お待たせ」
僕が戻ると、早苗は小さな機械を手に取っているところだった。
それは片手に収まるぐらいの角ばった機械で、天狗たちが持つ写真機をより小さくした形。
確か、前に能力で調べたときはデジタルカメラという名前で、用途も写真撮影だった。
とはいえ、撮影までは天狗の手ほどきで何とかわかったが、どう操作しても写真自体が出てこない。あの新聞記者はネガがあれば写真にできるというものの、薄っぺらなカード一枚と乾電池というものしか見つけることはできなかった。
「それが、気になるのかい?」
西瓜を机に置きながら、早苗に話しかける。
「はい。まさかデジカメまであるとは思わなくて」
デジカメ?
困惑して、思わず早苗をしげしげと見つめてしまうが。
「西瓜ですか。夏の風物詩ですね……いただきます」
早苗の視線は西瓜に吸い込まれていて、僕とは悲しいすれ違い。
デジタルカメラの略称だと気づくまで、それから数秒を要した。
何でも略す必要はないだろうにと思うが、早苗の口ぶりから伺えるにデジタルカメラはデジカメという略称で彼女の生活に浸透しているのだろう。それだけ、身近なものなのかもしれない。
そんなわけで、早苗先生の今日の講義はデジカメとなりそうだ。
上品にスプーンでシャクシャクと西瓜を味わう早苗を待って、講義の開始。
「ええと、これは写真を撮るため機械ですが、あの新聞記者さんがもっているのと機能は基本的に同じです」
用途に関してはすでに僕の能力で知っていることだが、早苗の裏づけが取れたことで確信が深まる。
問題は、なぜ写真がでてこないのかということ。
「写真が出てこないのは、壊れているからだろうか」
僕の質問に、早苗は困ったように店内に視線を投げた。
乱雑な店内を一通り見渡して、僕の疑問に応えてくれる。
「確かに、これだけでは写真にプリント……ええと、印刷することができませんし、必要なものもないようです」
「そうか……写真にしたいものを結構撮っていたから、少し残念だね」
幻想郷の四季。姿を変えていく風景と、各種の異変がもたらした絶無の光景。
密かに写真に収めたいものが沢山あった。今回、かすかな希望を持っていたのだが。
だから、僕の仏頂面は「少し残念」というには影が深かったのかもしれない。
「でも、どんな写真をとったのかは、こうやって確認できますよ」
僕を気遣って、早苗は慌て気味にフォローに入ってくれる。
だが。
「……あれ?」
デジカメの画面を覗き込みながら、早苗は固まっていた。
いや、手元だけは並んだボタンを忙しくいじっているものの、困惑の色は濃くなるばかり。
「お、おかしいですね」
言いながら、顔が真っ赤になっていく。
口をぎゅっと結んで手元を覗き込んでいたが、やがて手を止め、顔を上げる。
若干の涙目。
「あ、あの、すいません。機械いじりって、本当は苦手なんです」
「え、そうだったのか」
だからといって自分に何ができるか知れたものだが、そのままほっとくことはできない。
僕も早苗の手元を覗き込み、手を伸ばす。
と、伸ばした手がデジカメの側面をかすった。かちりと、何かを押し込む感触。
「あ、再生モードになりました」
嬉しげな早苗の声に、なぜか上手く事が運んだことを知る。
早苗は笑顔でデジカメを見つめ、僕へちらりと上目遣い。
「男の人って、やっぱり機械をいじるのが上手なんですね」
まったくもって過大評価だが、早苗の微笑を含んだ上目遣いに射すくめられると、頭をかいて照れを誤魔化すしかなかった。
「じゃあ、見てみてもいいですか?」
「ああ」
僕の返事を受けて早苗は立ち上がる。
椅子を片手にもって、僕のすぐ隣へ。
ぴったりと肩をよせて、デジカメを二人の間に差し出した。
確かにデジカメの画面は小さくて、こうしなければ二人同時に見ることはできないだろう。夏の蒸し暑さに火照った早苗の肩が触れるのを感じつつ、それだけのことだと心に刻む。
「綺麗……」
呟いた早苗の視線は、デジカメの画面へ。
そこはまさに桜花爛漫。
齢を重ねた桜の老木が、紺碧の空へ節くれだった枝を伸ばしていた。その全てを覆いつくさんばかりの淡いピンク色の衣。
だが、次の写真を見て早苗が固まる。
「あれ?」
早苗の呟きが示す違和感は、そこの映った我が家の裏にある桜の姿だろう。
桜の枝に咲き誇る、まるで初雪をまとったような白。
白い桜ならヤマザクラなど見かけられるが、汚れ一つ許さないような純白は異様な光景だった。
僕は思い出す。これを写したのは、あらゆる花が咲き乱れた異変、六十年周期の大結界異変のときのものだと。
「幻想郷にはこんな桜があるのですか?」
事情がわからず、小首を傾げる早苗へ悪戯心がわく。
「まあ、次の写真を見てごらん」
言われるまま、素直に写真を切り替える早苗。
すると、桜を写した遠景に写真が切り替わる。
こちらも同じ日にとった写真だった。咲き誇る桜のピンクに、草原の萌える緑。その向こうで向日葵の一群が鮮やかな黄色を放つと、画面の片隅には淑やかに薄紅を添える彼岸花。
「え? これ春ですか? え?」
予想通り、混乱しきる早苗。
無理もない。あの花の異変を写真に収めようと、季節が不明な風景をわざわざ選んで撮影してきたのだから。
さて、満足したところで種明かしをしよう。早苗の髪を飾る蛙が、じっとりと僕を睨んでいるのが怖いので。
僕は六十年周期の大結界異変を説明する。とはいっても、原因を全て把握しているわけでもないのであらゆる花が咲き乱れたという現象だけ。
早苗は驚いた表情を一瞬ひらめかせたが、幻想郷だからこういうこともあると勝手に納得してくれた。
次の写真には、草原を彩る野菊や秋桜と、赤紫の絨毯のようなアザミの群生。
「一度に色んな季節の花が咲く光景は面白いのですが……」
苦笑する早苗が言わんとすること。それは、景色が風雅でないことの不満だろう。画面は季節感が錯綜して、趣味の悪い花の博覧会を眺めているようだ。もののあはれが、この写真にはない。
季節の移ろいを心を動かされるためには、芽吹き始めた新緑と冬の終わりを待ちかねて咲き移ろう季節の花々が必要。
画面は、やがて異変解決後のいつもどおりの景色を映し出す。
天を突くほどに背を伸ばす向日葵。その丘を埋め尽くさんとする眩い黄色に、たまらなく夏という季節を感じていた。
ここの撮影後、風見幽香と出会って肝を冷やしたことを思い出す。満面の笑顔から嫌な気配を放つ手合いとは、あまり出会いたくないものだが、僕の知り合いはそういう手合いに事欠かないのはなぜだろう。
僕と早苗はデジカメの写真を先へ先へとたどっていく。
「あ、霊夢さん」
早苗が呟いた。
このデジカメに映し出された初めての人物は、博麗霊夢だった。
店の中に佇む彼女は、まるで一枚の絵画のよう。ファインダーに向けて、えもいわれぬ微笑みを向けている。
だが、霊夢が微笑みを向けたのは僕に対してではない。この写真の撮影者は霧雨魔理沙。このデジカメを見つけて、試し撮りの対象に選んだのが博麗霊夢だった。
霖之助さんでも撮っていればいいじゃないのと悪態をつきながら、それでも一枚だけというとこで応じたこの一枚。だが、ここに映し出される霊夢の表情は初めて見るものだった。
信頼を込めた自然な微笑み。恐らく、親友だけに見せる表情。
「霊夢さん、すごくいい表情していますね」
早苗もそう思ったのだろう。
ただ、ちらりと半眼で僕を見つめたその意図をうかがい知ることはできなかった。
写真の再生は、それから数枚を経て終わった。
「幻想郷の風景を色々と見ることができました」
早苗の言うとおり、霊夢の一枚を除いて写した写真は全てが風景ばかり。
まあ、風景は勝手に撮っても文句を言われないからね。
人に声をかけるのも手間だし、それに別に理由もあった。個人的な理由が。
ふと、隣を見ると写真の再生が終わったというのに移動するのが面倒なのか、そのまま傍らにいる早苗。
女性の淑やかさと少女の面影が同居する美しい顔立ち。それが間近で僕を見上げて、疑問を口にする。
「人物の写真は霊夢さんだけでしたね」
「え? ああ、うん。この時は、人を撮るとそのうち辛くなると思っていたからね」
思わず、霊夢の名前に反応して余計なことを口走っていた。
気づいたときには、興味深そうに僕を見つめる双眸があった。邪険に無視するのは気が咎めて、僕は説明を始める。適当な言い繕いは、早苗のまっすぐな瞳には無力だろう。
なるべく、心のままに話そう。
「霊夢や魔理沙から聞いて知っているかも知れないけど、僕は人と妖怪の血が半分ずつ入っている」
考えれば妙な出自だとは思うが、人と妖怪の合間で苦しんだことなんてほとんどなかった。物語の主人公なら葛藤すべき要素なのだろうが、僕はのんびりと香霖堂を営む怪しげな店主でしかない。人と妖怪のどちらに立脚するかなど、さしたる問題ではなかった。
ただ、どうしても思い知らされるのは寿命の差異。
「そんなわけで、僕は妖怪ほど生きることも、人間ほど早く死ぬこともできない。だから、下手に人と深く触れ合って、思い出となるものを残したりすると必ず別れを迎えることになる。何度もね」
僕の記憶に残る最初の別れ。もうおぼろげになりつつある片親の顔。
やがては魔理沙や霊夢も僕の記憶の中だけの存在となるだろう。
懐かしさと寂しさで心を締め付けても、やがては記憶はかすれていく。苦しさも曖昧になっていく。だが、写真を見返す度、追憶とともに鮮明な痛みが蘇るのではないだろうか。そして、これからその想いをどれだけ重ねていかなればならないのか、僕は途方もつかない。
それだけに、霊夢へ芽生えた想いは決して表に出してならないと心に刻んでいたのだ。無論、このことだけは早苗には黙っておく。
「実はこれが案外きつくてね。ただ通り過ぎる者を見送るように、思い出なんてものがあまり残らないよう、人と接していこう考えていた」
僕の話を、早苗は悲しげに眉をひそめて聞いていた。
恐らくは同意できないものの、口を挟んでいいのか逡巡しているのだろう。
僕は早苗の言葉を待つため、一端言葉を切る。
「あの、私には森近さんみたいな経験もないですし、生意気だと思われるかもしれませんけど、言わせてください」
早苗はおずおずと切り出すが、続く言葉は信念に裏付けされた確かな口調だった。
「森近さんの考え方は、少し寂しいと思います。誰かと深く関わって生きたということは、後で自分の支えになってくれると思うんです。それに、そんな理由で遠ざけられてしまうのは……嫌です」
最後の文節だけは小さくなっていってよく聞こえなかったが、強い気持ちのこもった早苗の言葉。
何故だか母親に悲しまれているような罪悪感が僕に芽生えて、慌てて言葉を継ぐ。
「ああ、自分でもそう思うよ。だから、最近では考え方が変わってきたんだ」
達観して心を律する。人であろうと妖怪であろうと、ほとんど不可能なことを生き方の指針にしてきた。人と距離を置けば人に恋焦がれることもなく、傷つくこともないなどいうのは、心を軽く見た戯言でしかないというのに。
今だってそうだ。禁忌を頭が理解していても、どうしようなく胸が焦がされる。
人の寿命は短い。妖怪としての生に比べたら砂時計の砂一粒のようなもの。だが、それが何だというのだ。触れ合うのは無駄なことだと思い上がり、目をつぶって耳を塞ぐことに何の意味があるのだろう。
そのことを気づかせてくれたのは二人。霊夢への募る想いと、目の前の少女だった。
早苗は、もう二度と会えないだろう人の言葉を大切な思い出だと心に織り込んだ。それはこれからの彼女の人生で、どれほどの助けとなるだろう。
彼女を見ていると、身を裂くような別離の悲しみにも大切な意味があるような気がしてくる。人の人生は砂時計の砂一粒などではなく、宝石のような輝きを放つ大切な何かだと感じとれそうな気にすらなる。
「だから、君には感謝しているよ」
「わたしですか!?」
僕の言葉を、きょとんとした表情で聞いていた早苗。
だが、次第に花開くように早苗の顔が笑顔でほころんでいく。
「性分はすぐに変えられないけど、これから人になるべく関わっていきたいね」
そんな早苗を見ていると、少しリップサービスを口にしてしまう。
実際、生き方なんてすぐには変えられない。僕は相変わらず無愛想で商売下手な半人半妖であり続けるだろう。ただ、物事のとらえ方は確実に変わっていく予感がした。
「そうですよ!」
僕から感謝の念を向けられた早苗は、はにかんだ笑顔で力強く頷いていた。
気がつけば、胸の前で力強く両拳を握っていた。中々大胆な身振り。興に乗れば意外と暴走するタイプなのかもしれない。
「それに……」
だが、この台詞を口にしようとして、早苗の口調はややトーンダウン。
この少女にしては珍しいことに、俯いて視線を外してしまう。
「森近さんがもっと人に関わろうとしてくれた方が、その……私も嬉しいですから」
俯く早苗の耳が赤い。
夏の蒸し暑さに逆上せてしまったのだろうか。
仕方のないことだろう。今は窓からも涼風がまったく入ってこない有様。
入り口を全開に開いてこようかな。
僕が立ち上がろうとしたその時だった。
「霖之助さん、いる?」
扉の開く音が響くなり、間髪を入れず霊夢の声。
僕の返事を待たず、入り口に見えたその紅白の影はずんずんと店内に入り込んでくる。
「いない方が勝手にもっていけて都合がいいのだけど」
「いや、ちょっと待て」
何やらひどいことを言い始めたので、慌てて返事をして立ち上がる。
「いたの霖之助さん、残念」
くすりと笑って、ちらと早苗へ視線を向ける。
「あらあら。とんだところであったわね」
「あ、お邪魔しています」
早苗も立ち上がって軽く会釈。
とんだところに在住している僕としては異議を挟みたいところだが、女同士の会話に分け入るのはちょっと気がひけた。
憤りを知ってか知らずか、僕の顔を霊夢はいつもの余裕に満ちた微笑で一瞥。次に早苗に向き直る。
「ここ、面白いお店でしょう」
からかうような声色なのに、なぜ僕は嬉しくなっているのだろう。
霊夢の「面白い」は、「変」の同義語だとわかっているのに。
「その、いいお店だと思います」
一方、早苗はやはりいい子だった。是非、霊夢も見習ってくれ。
すると、予想外にも霊夢は早苗の言葉にうんうんと頷く。
「お金を払わなくてもいいのが素敵よね」
それは、待て。
「え、ええ!? だめですよ!」
霊夢のきつい冗談に慌てふためく早苗さん。
その様子が楽しいとばかりに霊夢の唇には爛漫の笑み。夏の陽だまりに咲き誇る撫子のよう。
僕は努めて厳格そうな咳払いをもらした。
「まったく、冗談はほどほどにしてくれないか。それで、今日は何がご入用なんだい?」
今にもため息がこぼれそうな声で用件を伺う。
「ええ、聞いてよ霖之助さん。人がのんびりしていたら、やかましいのと出会っちゃって」
僕が水を向けると、ぶつぶつと話しはじめる霊夢。
彼女は意外と愚痴っぽい。
近頃の茶葉の値上がりの不満、誰か賽銭箱に何も入っていない異変を解決してくれないかしらという呟き、弾幕勝負でファイトマネーをとるべきねという謎の提言。それらの過程を経て、買い物のために神社を出たところを無謀な氷精に弾幕勝負を仕掛けられ、結果衣服の一部が弾幕で破れたという説明までたどりついた。
その愚痴っぷりに、傍らで聞かされる早苗もちょっぴり苦笑気味。
僕はこういう霊夢の愚痴を聞いているのが楽しいのだが、表情にはださない。
「ったく、あの馬鹿妖精」
なおも愚痴り足りないような霊夢。
「そういうことなら替えは用意しているから着替えてくればいい。今着ているのも繕いに出しておくよ。で、どこを破られたんだい」
僕の質問の意図するところは、繕いの参考のためだった。
その意図は霊夢にも正確に伝わったのだろう。お互い、付き合いはそこそこ長い。
「ここよ」
右腕を高々と上げ、こともなげに脇腹を見せる。赤い巫女服の胴が一直線に切られ、真っ白な肌が見えていた。高々と上げらて丸見えの腋には、白いさらしまでがちらりのぞいて、僕は思わず目をそらす。僕を異性として意識していないがゆえの無防備。
「そ、そうか。じゃあ奥に置いてあるから着替えてくれ」
あさっての方向、開け放たれた玄関を見つめながら僕は霊夢に指示をだした。
玄関からは燦々とした日差しが入り込み、店内にたちのぼる埃がきらきらと光に浮き上がって踊っていた。
その様子を眺めて、はねあがりかけた心臓を徐々に沈める。
「そうさせてもらうわね」
一方、霊夢は勝手知ったる何とやら。づかづかと店の奥へ入っていく。
「慣れているんですね」
霊夢の後姿を見送る静かな声。
早苗が僕を見つめていた。
「まあ、付き合いは長いからね」
「そうですか」
妙に淡白な早苗の返事に、かすかな違和感を感じたその時。
どたどたと、騒々しい足音が奥の部屋からこちらへ向かってきた。
「霖之助さん、仕舞っている場所変えたでしょ。どこにあるのかしら?」
霊夢の言葉に、仕立てられた巫女服を服に入れて別の部屋に置きっぱなしにしていることを思い出す。
僕は苦笑して、霊夢に詫びようと口を開く。そのまま僕は固まった。
着替えようとしたためか、霊夢はその髪留めを外していた。
腰まで伸びた、鴉の濡れ羽のような艶のある黒髪。ひそかな玄関の風にさらりと流れる。いつも頬の両側で結んでいる黒髪はわずかにほつれて、不思議な色気を感じさせていた。巫女の神性と、大人びた艶やかさ。その二つが織り成す美しさに、僕は打たれる。
とはいえ、髪をほどいた霊夢に見惚れていたのは一瞬。まさに一秒もないだろう。
「どこにあるのか案内してね」
異常に勘が鋭い霊夢にも気づかれた様子はない。ほっと胸を撫で下ろす。
「まったく、仕方ないな」
僕は肩をすくめて、店の奥へ通じる廊下へ一歩踏み込もうとする。
その前に、店内に残る早苗に視線を向ける。
「すまない、ちょっと席を外すから待っていてくれ」
言い残し、早苗の返事を待たずに僕は霊夢の後を追っていく。
霊夢の着替えのある部屋へ。
目の前においてあった巫女の入った袋を拾い上げる。
早くよこしてと差し出される霊夢の手。
それを無視して、溜まったツケの返済計画について細々とやり取りを重ねたものの。
「お金に余裕のあるときにね」
と、未来永劫返さない宣告を出されて終結となった。
そのままここで着替えるからと追い出される。
相変わらずの傍若無人だ。
とはいえ、ツケがある限り霊夢と関わる合法的な理由があるわけで、中々悩ましい問題といえよう。
僕は店先へと、小走りに戻る。
霊夢との丁々発止のやり取りが面白くて、少し早苗を待たせてしまっていた。
「ごめん、待たせたね」
開口一番、詫びを口にする。
だが、返事は無かった。
予想では「大丈夫ですよ」と、早苗は寛容に微笑んでいるはずだった。だが、その姿はどこにもない。
待ちきれず、帰ったのだろうか。
そうだとしても、あの律儀な子なら帰る前に一声呼びかけているはずだ。
不可解な思いに駆られて、早苗の名を呼んでみる。
しかし、応える声はない。
静まり返る店内。
いつもは騒がしい来客の度に求めてやまないのがこの沈黙。
だが、僕は初めて静寂に居心地の悪さを感じていた。
雷鳴が通り過ぎると、お次は叩きつけるような大雨。
時は夕暮れ。いつもなら、せみしぐれや風鈴といった夏の音に染まる時刻だが、今は豪雨に塗りつぶされていた。
屋根を叩くばらばらという雨の音が特にやかましい。
夕焼け空は厚い雲の向こうに隠れ、店内は薄暗がりに支配されつつあった。
こんな天気では、今日はもう店じまい。
僕の店にくるお客さんはほとんど気紛れがその動機だが、豪雨の日に気紛れを起こす人もいないだろう。
そんなわけでこの店は今、誰も入り込まない密室のようなもの。ひとりで物思いにふけるのはもってこいの空間だ。
もちろん、僕も頬杖をついて考え事にふけっていた。
考えていたのは、一人の少女のこと。あの日以来、顔を見せなくなった早苗のことを考えていた。
あの日まで一週間に数回顔を見せてくれた早苗も、もう丸一週間姿を見せていない。
やはり、放置されて怒ったのだろうか。だとしたら、本当に申し訳の無いことをした。嫌われたということも悲しかったが、嫌な思いをさせた申し訳なさが心に突き刺さる棘となっていた。
この痛痒は心から謝罪を伝えなければ癒されそうにない。
雨があがり次第、守矢の神社に御参りにいこう。許してもらえるとは思えないが、早苗に与えてしまった不機嫌がほんのわずかでも消えることを願って。
そのためにも、早く止んでくれないものか。
バケツをひっくり返したような雨足は未だ激しく、その空模様を恨めしげに睨む。
だが、天に逆らうこともできず、僕は視線を落とした。
雨を受ける地には水たまりが浮き上がり、ずいぶんと広がっていた。もはや、店の前はちょっとした池のよう。
雨水の通り道も、もう滔々と流れる濁流と化していた。
ふと、どこかの堰が決壊でもしているのでは不安がよぎって、水の流をたどらせていく僕の視線。
その先に、人影のようなものをとらえた。
目を凝らすと、雨水がつたうガラスの向こうに誰かの後ろ姿。淡く青が揺れている。
早苗だ。
この大雨に傘もささず、こちらに背を向けて、振り返りもせず遠ざかっていく。
胸騒ぎに駆られて、僕は立ち上がる。
そのまま、傘を手にすることもなく飛び出した。
早苗の朧な後姿が今にも消え入りそうで、焦燥が僕をとらえていた。
絶対に放ってはおけない。
顔を叩く雨の冷たさ、顔にはりつく前髪のうっとうしさ、足元をすくう水溜りの重さ。
ひたすらに走って人影に近づいていく。間違いない。東風谷早苗だった。
「早苗!」
早苗の肩がびくと震えた。
振り返る早苗。雨に濡れた瞳が大きく見開き、次にぎゅっと目を閉じる。
雨が目じりから一滴ながれ落ちた。
早苗の唇が動いて何かの言葉を発したが、小さくあえぐような声。豪雨にまぎれて聞き取れない。
だが、一歩後ずさりしたことでここを去ろうとした意図を読み取り、僕は思わず手を伸ばす。
早苗の細い手首を、きゅっと握り締めていた。
冷たい。夏の最中にもかかわらず凍えるようで、どれだけ雨の下にいたのだろう。
「とりあえず、店に入ろう」
僕の言葉に、早苗は震えるように首を振る。だが、このまま帰せば間違いなく風邪を引く。肺炎にだって至るかもしれない。
少し嫌われても仕方なかった。強引に手首を引くと、早苗がふらりと僕の傍へ。早苗は抵抗を示さず、引かれるままに雨の中を歩き出す。
早苗との距離が近づいて、僕の耳朶に早苗の声が聞こえてきた。
「森近さん、ごめんなさい……」
早苗の言葉は、まったく言う必要のない台詞だった。
「謝るのは僕だから」
口を開くと殴りつけるような雨が舌を打つ。
怒声すらかき消すような大雨の中、何とか僕が口にできた台詞はそれだけ。後は早苗の傘となるよう身をよせて、小走りで雨の中をかけていく。
行く時も帰る時も、一切容赦のない豪雨だった。
でも、なぜだろうか。二人で手をつないで浴びるこの雨に、僕はあまり冷たさを感じなかった。
店の前までようやくたどり着く。
それなのに、なおも逡巡しようとする早苗。
「その、軒下でいいです。店の中を濡らしてしまいますので」
「別にかまわないから」
早苗の腕を引いて店の中へ。
扉を閉めると雨音が遠ざかって、ほっと一息。同時にむわっとした熱気がこもる。
びしょ濡れの衣服が実に気持ち悪い。
早苗も俯き加減の前髪から雫がこぼれている。その巫女服も存分に雨水にさらされていた。早苗の肢体にはりついて、その女性らしい線を浮き上がらせている。
「今、何か拭くものをもってくるよ」
僕はタオルを求めて奥の部屋へ。
またいなくなってしまうのが心配で、駆け足で戻ってくる。
早苗の姿を確認して一安心。なぜか口をついたため息に自分で苦笑する。
早苗は、相変わらず俯いたままその場に立ち尽くしていた。
「はい」
タオルを手渡しするも、早苗は髪を伝い流れる滴を拭おうともせず、口をつぐんで僕の方を見ている。
訝しんで見返すと、そのまつげの長い瞳をそっと伏せた。
「あの、森近さん。この前は突然いなくなってごめんなさい」
早苗の律儀な性格から、気に病んでいるかもと予想はしていた。
だから、何を言うべきかも僕はわかっている。
「……僕が君に失礼なことをしたからだよ。だから、君が気に病むことはなにもない」
もう、いいからと笑ってみせる。だが、笑いなれてない僕の笑顔はどんなふうに早苗に見えたのだろう。
早苗の表情に差した影は消えない。
「あのあと、すぐに謝りにいこうと思いました。でも、どんなふうに謝ればいいのかなって、怖くなっちゃって……ようやく、今日すぐそこまでいたのですが、雨に降られてしまいました。運がないですね」
くすりと微笑む早苗。だが影の深さは変わらない。
「ずぶぬれになってしまったので、今日は帰るつもりでした。そうしたら 森近さんに声をかけてもらって……嬉しくて……」
声がかすれていく。
僕はどうれば早苗が落ち着いてくれるのか困り果て、滴が落ちるがままの早苗の頭の上にタオルをのせた。
「そのままでいると、体に毒だよ」
なるべく優しい手つきで髪を拭った。
その一瞬、強張る早苗の体。
「……んん」
けれど、ぎゅっと目をつぶったまま大人しくされるがままになる。
あらかた吹き終わってタオルをあげると、そこには頬を赤く染めた早苗。ふうと熱い息を吐く。
少し落ち着いた様子の早苗。
先ほどのように過度の自省に陥ることなく、何も言わず僕を見上げていた。頬には相変わらずの朱。
体が冷えて熱っぽくなったのだろうか。このままにしていたら風邪を引きそうだ。
特に心配なのが、ぺったりと太ももの形を明らかにする早苗の衣。冷たい水に全身を浸らせているようなものだ。
服を乾かすことができればいいのだが、湿りきった空気が立ち込める店内ではどうしようもない。
せめて、早苗を着替えさせることができればいいのだが、この家は男の一人暮らし。
女性に着せられる服などあるだろうか。
……いや、一着だけあるぞ。
首筋をタオルで拭い、ようやく人心地ついた様子の早苗に、僕は一つの提案を持ちかける。
「霊夢がこの前繕いをお願いしていった巫女服があるんだけど、今、一着できあがって奥の部屋にあるんだ。とりあえず、それを着たほうがいい」
瞬間、弾かれたように僕の顔を見返す早苗。
大きく見開いた目が、やがて感情を閉じ込めるようにゆっくりと表情を消していく。
「そのままの服でいると風邪を引くから」
なぜか、僕は焦って説明を繰り返していていた。
早苗の無表情のまま、こくりと人形のように深く頷く。
「わかりました」
衣の裾をぎゅっと結んで廊下に滴をこぼさなよう、しずしずと奥へ向かう早苗。
さて、これで一安心。
体を温める熱いお茶をいれて彼女を待とう。
お茶をすする一時は、きっとほっとした心地に僕たちにもたらしてくれるはずだ。
そうしてほっと一息つくことができら、僕からきちんとこの前のことを謝らなければ。
そうなれば、仲の良い友人……いや、だらしない兄としっかりものの妹のような元の関係に戻れるだろうか。
二つの湯呑みに湯気が立つ。緑茶を注ぐ僕の耳に聞こえてくるひそやかな足音。
振り向くと、紅と白の霊夢の巫女服をまとった早苗がこちらに向かってきている。
霊夢のせいで赤は活動的な印象があったが、早苗が身につけると静かに燃えさかるかがり火のよう。心を穏やかにする、早苗の人柄のせいだろうか。
僕が見つめていると、早苗の表情に照れたような微笑み。
先ほどまでのぎこちない表情が薄れた自然な表情て、僕は心からほっとする。
早苗は廊下から店内へ入り、僕の前へ。
正面に立たれて、はじめて気がついた。
早苗は、いつもの髪飾りを外していた。
長い髪が解けて広がる。水気を帯びてしっとりとした早苗の髪。赤い衣の上ではらりと流れて、その有様はまるでかつての霊夢のよう。
早苗の唇が微笑を形作って、急に大人びた少女に僕は息をのんで見惚れていた。
自失は瞬きほどの間か。我に返ると、かすかに震える早苗のか細い肩に気づく。
雨のせいで体が冷え切ってしまっているのだろう。
「向こうにお茶を淹れておいたよ。まずは暖まった方がいい」
早苗に背を向けて、湯呑みのある方へ歩き出そうとする。
だが、不意に背中をついたやわらかな感触。
何が起こったのか、すぐに理解する。
早苗が僕の背中に額をつけていた。早苗の両手は僕の袖を掴んで、体は軽く僕にもたれている。
突然のことに、僕は問いかけることも振り返ることもできなかった。ただ、背中に燃え上がるような熱を感じている。
少しの沈黙のあと、背中に響く早苗の声。
「ごめんなさい、森近さん。このまま話を聞いてもらえますか……」
泣きそうな声は、ぎこちない僕の頷きを待って先を続けた。
「森近さんと出会った頃を、この一週間、思い返していました。初めて博麗神社で森近さんに会ったとき、最初はちょっと無愛想で話しづらい人かなと思ってしまったことを」
「正確な人物鑑定だね」
笑いかけるが、早苗は淡々と言葉を重ねていく。
「でも、不思議と森近さんとは話しやすくて、お酒の席であんなに話したのは初めてのことでした」
恐らくはアルコールが口を緩めたこともあったのだろう。
それに、僕はどこか危うげな早苗に僕は知らず親身になっていた。
かつての魔理沙に感じたような保護者の意識をかき立てられたのかもしれない。
「次に香霖堂さんにお邪魔して、思いもかけず携帯電話を見つけだして……あの時はずいぶんと取り乱してしまいましたね」
早苗の苦笑が背中をくすぐる。
歳相応のはしゃぎようを見せる早苗はとても可愛らしかった。
だが、そのことは、黙っていたほうがよさそうだ。
今は早苗の話したいように話させてあげたい。
「完全に諦めていた願いが突然叶って、本当に嬉しかったですよ」
早苗の感謝の言葉がこそばゆい。
僕は人に感謝されることに慣れてないから、合いの手も入れられず、幸せな気分で立ち尽くす。
「それから、度々こちらにお邪魔するようになって、本当に楽しかった。外の世界の道具について森近さんを助けることができたことも、その間の何気ないやり取りも、全部……」
早苗の親しみに満ちた話し方がとても心地よかった。
「森近さんは幻想郷で一番話しやすい男の人。そう思っていました」
だから、過ぎ去った幸福を振り返るような早苗の口調が気にかかる。
これからも楽しさが続くというのに、儚さを感じたのはなぜだろう。
「だから、人とあまり関わらないようにしていると言われたとき、同じように自分も遠ざけられるのかなと怖くて……つい強く言ってしまいました」
デジカメを覗き込んで、思わずもらした僕の言葉を思い出す。
「あの時、物凄く勇気を振り絞ったんですよ」
早苗の声色には冗談めかした含み笑い。
誘われて僕もくすりと笑う。
少しだけ二人の間を流れた穏やかな空気。
それなのに、含み笑いの最後に重なったのは深いため息だった。
「だけどその後、霊夢さんがきて……私は……嫌な子になりました」
「あれは僕が悪い」
もうその言葉は何度目だろう。
けれども背中で、ふるふると首を振る頑なな早苗。
「帰って一人になって、こんなに心がもやもやするのはどうしてだろうって考えて……ようやく気づいたのは、すごく簡単なことでした」
ぎゅっと、背中に感じる早苗の頬の柔らかさ。
背中に伝えられる、僕にはもったいほどの早苗の親愛。
それだけに、僕はますますどうすればわからず立ちすくむ。
長い沈黙が二人の間におりていた。
僕は先を促すこともできず、早苗も「ようやく気づいた簡単なこと」を口に出そうとしない。
やがて、ぽつりと早苗は呟く。
「森近さん。最後に、一つだけ質問をさせてください」
「ああ」
早苗が何を言うのかは予想がつかない。
僕ができるのは、何であろうと誠実に答えることだけ。
早苗の満足できる答えを言えたなら、二人の昂った心を淹れたてのお茶で静めよう。
そうすれば、きっと何事もなく僕らは元に戻れるのだから。
気がつけば、僕の袖を握る早苗の手にぎゅっと力がこめられていた。
「森近さん」
背中に感じる早苗の吐息。
額を押し付けて、囁く。
「私は、霊夢さんの代わりになれますか」
問いかけの示す意味に、僕は凍りついた。
続いて、半鐘のように早まる僕の鼓動。
違う。そもそも、君を誰かの代わりにしたいとは思ってはいない。
早苗を傷つけない言葉を精一杯ひねり出し、口にしようとする。
途端に背筋を貫く白々しさにぞっと総毛立つ。
霊夢の服を着せて、霊夢の名前に昂った心の音を聞かせた少女に、僕は何を言おうとしているのだろう。
僕の霊夢へ対する浅はかな取り繕いを、早苗は隣でずっと見てきたというのに。
僕は言うべき言葉を失っていた。
たった一つだけの早苗の質問。それに答えられない不誠実さと、口を開けば飛び出してきそうなさらなる過ちに、僕は慄いて声もでない。
「……答えなくてもいいです」
早苗の優しさがいたたまれない。
沈黙が答えとなってしまうことが、僕にはもどかしかった。
何とか、僕にとっての早苗の大切さを伝えたい。確かに胸を焦がす思いではないけれども、一緒にいるだけで優しい気持ちになれる居心地のよさ。
それは早苗の望む答えではないかもしれないけど、その気持ちをどんな形で伝えればいいのかと思い悩む。
だが、僕の言葉は柔らかさに押し留められた。後ろからおずおずと腕を回し、僕をかき抱く早苗。
「その代わり、もう少しだけこのままでいさせて下さい……」
全身に寄り添う早苗の暖かさに、僕は言葉を飲み込む。
振り向いて、抱きしめられたらどれだけ満たされることか。
だけど、それはきっと早苗を傷つける。
結局、僕は立ち尽くす木偶の棒。
静まり返った店内で、僕らは言葉も無く立ち尽くしていた。
この空間に響くのは、雨音を打ち鳴らす雨だれと僕らの穏やかな二人の呼吸。
それ以外、何も聞こえない。まるで、二人以外が世界から消えたかのように。
ずっと閉ざされた世界であれば、何も二人の間に悲しいことは存在しないのにと、詮無き事を思っていた。
窓から土砂降りの空を見上げれば、見渡すばかりの曇天。
雨足は衰える兆しを見せない。
分厚い黒雲が投げかける暗がりに、僕らは沈みこむ。
いつしか考えることすら忘れて、ただお互いの熱と鼓動だけを感じていた。