ちるちるさくやん

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 穏やかな日差しを落とす昼下がり。
 紅魔館の窓辺は春の陽だまりとなっていた。その只中に、短い休息を取る咲夜の姿。心持ち首が下がり、白いうなじは陽光を浴びて淡く輝いている。
 かすかに上下する胸元。呼吸はゆったりと深い。目蓋の重みに、限りなく細くなる瞳。まどろみの淵に足をかけていた。
 今にも春眠に捕らわれようかという有様だったが、そこまでは咲夜の責任感が許さない。
「ん」
 小さな気合の声。居眠りへの甘い誘惑を軽く頭を振って追い払う。続けざまの欠伸の衝動を眉間の深い皺に変えて、ようやく一息。
「……眠たくもなるわね」
 追い出しきれない眠気を吐き出すかのようにひとりごちた。
 あいも変わらず、陽光は柔らかな温もりとなって咲夜を包み込んでいる。まるでお日様を十分に吸った布団に身を委ねているよう。連日、紅魔館の大車輪として働き詰めの身ではひとたまりもなかった。
 春日、遅々として進まず。ゆったりとした時の経過はひどく甘美な苦悶。安らぎに遠のいていく意識を、持ち前の自制心で何とか踏みとどまらせる。
 幾度かのため息の後、ふと、あの門番もこの誘惑耐えているのだろうかと咲夜は思い至り、即座に耐えてないだろうと結論づけた。
 それでも、確認に行く気は起こらない。この穏やかな日和に気分まで朗らかにされてしまったようだ。日の長くなった太陽を目を細めて仰ぎ見る咲夜。かすかに綻ぶその口元。
 空は紺碧。春風が雲を押しのけたのか雲の切れ端一つなかった。
 遮るもののない春爛漫の日差しに、庭園の新緑が眩い。
 気がつけば、庭園のあちらこちらで旺盛な春が芽吹いていた。木蓮の楚々としたピンクに、羽をやすめていたモンシロチョウ。花弁を揺らす春風に、吹き上げられて青空へ。
 花壇には一面のチューリップ。日の差す方へ蕾を伸ばす。今にも綻びそうな様子で、庭園の主役が交代するのは間近のようだ。
 ほんの二週間前、白一色の雪景色に雪割草が色を加えたばかりだというのに。咲夜が忙しさにかまけているうちに、春は目まぐるしく情景を変えてゆく。
「春は変化の季節、ね」
 陳腐な一節を呟いてみる。変わりゆく季節にようやく気づいた自分への苦笑を織り交ぜて。
 この変化の早さは、駆け足で過ぎていこうとしている春と忙しさに溺れる自分のどちらに要因があるのだろう。
 とりとめもない思考を遊ばせる咲夜だったが。
「さくやー」
 思索は無邪気な呼び声に割り込りまれた。
 廊下の向こう、角の暗がりに視線を走らせる。
 視界に鮮やかな真紅が目に入るやいなや、廊下の窓が全て厚いカーテンに閉ざされる。瞬きほどの時間も要さない。
「どういたしました、フランドール様」
 咲夜が恭しい会釈を向けたのは、紅の衣に小柄な体を包んだ蜂蜜色の髪の少女。一見して尋常ではないのは、異様そのものの翼。色とりどりの宝石が、節くれた枯れ枝に実をつけたかのよう。悪魔の妹という呼称を裏付けるほどの異形。
 とはいえ、咲夜に構えた様子はない。駆け寄ってくるフランには、あどけなく可愛らしい笑み。その親しみのこめられた表情を恐れる理由は何処にもなかった。
 春は変化の季節。咲夜その言葉を再び思い出す。
 かつて、フランとは遠くから様子を探る程度の交流しか持ち得なかった。あるいは地下の扉越しに。今思い返せば、フランに姿を見せたことすらなかったかもしれない。
 状況を変えたのは、とある事件が呼び込んだ二人の闖入者。彼女らとの邂逅が、フランに人間や外に興味を持たせるその契機となる。
 内心、霊夢と魔理沙に理由を求めなければならないことが少しだけ面白くない。だが、春の起こりは南から吹きつける強風から。強く思い至るのは、霧雨魔理沙という暴風が紅魔館にもたらした影響だった。少なくとも、フランの変化は凪であろうとした自分たちには永遠に不可能だったかもしれない。
「これ!」
 とりとめもない回想を押し破るように、フランが目の前に突き出されたのは一皿のシチュー。
 しげしげと見つめる咲夜。どうみても、何の変哲も無いホワイトシチューだった。
「おいしそう?」
 フランの言葉の意味するところを咀嚼するように、思わず目をしばたかせる咲夜。
 それでも意図がつかめないまま、素直に肯定を返す。
「そう見えますよ」
「よかった!」
 途端に華やぐフランの表情。
 大仰な喜びぶりに、咲夜はようやく一つの可能性に思い当たる。
「フランドール様。まさか……」
「うん、私がつくったんだけど」
 あっさりとした肯定に、思わずフランの持ってきたシチューを凝視してしまう咲夜。
「料理をつくられたのですね」
 事実を飲み込もうとするようにフランの台詞を繰り返す。
 なぜですかと咲夜が改めて尋ねるよりも早く、フランは口を開いていた。
「今日、魔理沙にお前は料理もつくったことないだろって言われて」
「今日?」
 咲夜の眉がぴくりと動く。あの門番、もはや門を破られた報告すらしなくなってきているなと、拳骨一つ分の不機嫌。
 一方、魔理沙の言葉には閉じ込めて何もさせていなかった過去を揶揄が潜んでいるようで、若干の罪悪感が芽生えていた。
 胸を塞がれる思いのまま、フランの次の言葉を待つ。
「魔理沙に言い返したんだよ。作り方さえわかればきっと作れるって! そしたら、じゃあやってみろよって」
 ぷうと、頬を膨らますフラン。
 咲夜の脳裏に映像がありありと浮かぶ。厨房に突然やってきたフランと魔理沙を、遠巻きに眺める妖精メイドたち。鍋の前でどうしていいかわからないフランへ、からかいながらもやり方を教える魔理沙の姿。
「すると、これはフランドール様のお手で全てつくられたのですね」
 言いながらも、下ごしらえしていた今夜のシチューの材料を思い浮かべる咲夜。きっと目ざとい魔理沙のこと。それを見て、流用したのだろうが。
「うん、がんばっちゃった」
 そんな些事など、充足感溢れるフランの笑顔の前には霞んで消えた。
「素晴らしいです」
 今にも拍手せんばかりの賛辞を受けて、満足した様子のフラン。
 見せつけていたシチュー皿を、さらに精一杯背伸びして昨夜へ近づける。
「じゃあ、食べてみて」
 思わず眼を見開く咲夜。
 胸元に手を当てて、自分でよろしいのですかと眼差しで問う。
「うん、皆に聞いたら料理のことは咲夜に聞くのが一番だって」
 実際にそのとおりだが、どう暴発するか分からないフランの性格を恐れた妖精メイドたちに、お鉢を回された観がなくもない。
 しかし、例えそうであってもフランにこんな形で頼られるのは光栄なこと。
「私でよろしければ、喜んで」
 快諾の意思を綻ぶような笑顔で伝えて、銀のスプーンを手にする。装飾を抑えた品の良いこのスプーンは、咲夜がレミリアの好みを見抜いて揃えたものだった。
 ふと、主の姿を思い浮かべる咲夜。もしかすると、フランの初めての手料理が何で私じゃないのとへそを曲げるかも知れない。
 申し訳ありません、お嬢様。心の中でこっそりとお詫びしながら、一さじ、シチューをすくい上げる。
 ふんわりと漂う、濃厚なクリームソースの芳香。
 香りは良好。スプーンには、形を崩したジャガイモと茸。煮込みすぎたのだろうかと観察していると、反対側から不安げな眼差しを向けているフランと視線がかち合う。身じろぎもせず、じっと咲夜の様子を伺っていた。
 口を真一文字に結ぶフランの真剣さが可愛らしくて、ついつい下がりがちな目じりに力を入れて持ち直す。真剣さには真剣さで報いなければ。
 咲夜は覚悟を決める。
 どんな味であっても、正直な評価と、次に繋がるアドバイスを必ず伝えたい。続けていくことが、やがては創り出す喜びへ変わっていくと信じて。
 躊躇うことなく、スプーンは薄く朱を引いた昨夜の唇へ。
 その唇が弾き出す言葉を、じっと待ち受けるフラン。
 微笑ましい緊張感が走る二人。
 これが、ささやかな大異変の始まりだった。



 霧の湖に、夕闇が迫っていた。
 山間に沈みゆく太陽。湖面には柔らかな光のさざなみ。立ち込める深い霧もほのかな山吹に色づいていた。
 西の空は息を呑むような茜色。夕暮れを進む二人の妖精も、夕焼けに染まっている。
「チルノちゃん、大分暗くなってきたね」
 先頭を行く妖精の少女が、振り返って呼びかける。黄昏色に染まった横顔には優しげな微笑み。
「うん」
 素直な返事は、後ろを行くチルノのものだった。チルノの透き通る氷の羽も、今は日暮れを映してほんのり蜜柑色。一刻もたたないうちに、夜の色に青みがかってゆくだろう。
「そうだ、チルノちゃん」
「なに、大ちゃん?」
 大ちゃんこと、大妖精という愛称の妖精は、速度を緩めてチルノに並ぶ。
 ぴったりと寄り添い、片手を差し出した。
「チルノちゃん、暗くなって迷子になっちゃうといけないから、手をつなご?」
「あたいは、はぐれたりしないもん!」
 子供扱いされたのが癇に障ったのか、その手に向けてあっかんべーをしてみせるチルノ。
 大妖精は怒ったそぶりもみせない。
「ううん、私がはぐれるかもしれないよ」
 即座に言葉を重ねて、チルノが勝手に納得するのを待つだけだ。
 予想通り、やがてチルノはおずおずと手を伸ばす。その手を、きゅっと大妖精は握りしめた。
「じゃあ、いこう。私の家までもう少しだから」
 よく考えれば、目的地がわかっているのだから、別に手を握ってまではぐれないようにする必要はない。各々、勝手に向かえばいいのだから。
 もちろん、チルノはよく考えないので気がつかない。
「うん、急ごう!」
 素直な同意を、にへらっと笑う大妖精に返しただけだった。
 大妖精の笑みは、ここまで計画が完璧に進んでいることへの満足の笑み。
 冬の終わりは冬の妖怪レティとの別れの季節。寂しげなチルノを見かけて、大妖精は家にチルノを招くことを決めた。
 実際は、大妖精も寂しかったのだ。レティとチルノの「遊び」に加わろうと思ったら、極地日和を覚悟しなければならない。一度挑戦して、自宅から10メートルの距離で遭難しかけたのは悲しい思い出だった。
 そんなわけで、春を迎えてようやく取り戻したチルノと一緒にいるだけで、自然とテンションが高まる大妖精。
「あんな女のことなんて、忘れさせてあげるからね」
「え、よく聞こえなかったよ、大ちゃん」
 取り返しのつかない本音をついつい口走ってしまったものの、チルノの奇跡的スルーで難を逃れる。
「ううん、何でもないよ」
 訝しげなチルノの視線を微笑みで誤魔化して、大妖精は一路、自宅へと急がせるのだった。


 自宅の玄関で、大妖精は立ち尽くしていた。
 すでに時刻は日没間際。深く傾いた日差しは少女の影を屋内へと伸ばす。その影法師の先に鎮座する一人の人間。無表情で、薄暗がりに佇んでいる。
「どうしたの、大ちゃん?」
 少女の後ろから、怪訝そうなチルノの声。答える大妖精の声は強張っていた。
「知らない女の人がいる。しかも、メイド服で」
 見たままの光景を伝えながら、大妖精はメイド服自体には見覚えがあることに気づく。それは、付近の妖精たちも働いている紅魔館のメイド服。
 しかし、ここは大妖精の自宅だった。紅くもなければ悪魔もいない。
「あ、あの、どちら様でしょうか」
 やけに堂々と居座っている不法侵入者に、恐る恐る問いかける大妖精。
「お気になさらず」
 無表情のまま、簡潔に応じるメイドさん。それで答えは済んだとばかりに、どこからか持ってきた湯飲みを口に持っていく。
 ずずずと、お茶をすする音が気まずげに響いた。
「いえ、めっちゃ気になるので聞いているのですが」
「そんな、とんでもないことです。お気遣いなく」
 丁重な言葉遣いだが、絶望的に断線コミュニケーション。
 どうすればいいのかなと、途方に暮れかけた大妖精。そこに、思わぬ助け舟が入った。
「あっ、十六夜咲夜!」
「あら、チルチル」
 大妖精の表情に驚きが広がる。
 紅魔館のメイドたちを束ねるメイド長、十六夜咲夜。紅魔館の雑務から主の身辺警護まで完全にこなす瀟洒な従者。紅魔館の妖精メイドたちから、怒らせればどれだけ怖いか伝え聞く存在だ。
「チルチルって、なにさ!」
「おう、ソーリー。でも、おねーさんはチルチルが気に入ってしまいました」
 だが、今の咲夜にそんな様子は欠片もない。勝手な愛称に気色ばむチルノを、謝罪成分ゼロの仕草でなだめていた。
 この人が何でここにいるのかわからないが、どう見てもネジが一本外れた変人だ。第一、これからチルノと楽しい生活をするには非常に邪魔。帰ってもらおう。
「咲夜さん。せっかくお出でいただいたのですが、今日はもう日も暮れますし、紅魔館に戻られてはいかがですか」
 とにかく丁重に、かろうじて「帰れ」という言葉を飲み込みながらの説得。
 だが、言外にこめられた響きは剣呑。有無を言わさぬ大妖精の意思を感じたのか、咲夜はようやく居住まいを正した。
「いえ、今日からこちらでお世話になりますので大丈夫です」
 大妖精の思考が凍結した。
 なにをいっているのか?
「あ、そうなんだ。よろしく!」
「ちょっと黙っていようね、チルノちゃん」
 勝手にとてつもない既成事実をつくりかけるチルノを、後ろからそっと抱きしめる大妖精。首のあたり回した腕に、きゅっと力を込めた。
 こてんと、大妖精に体重を預けて寝入ったように見えるチルノ。大妖精は会話を続ける。
「お世話するつもりはないですが、どういうことですか?」
「それが、お嬢様から暇を言いつけられまして」
 お嬢様。その言葉に大妖精が思い至るのは、紅魔館の主レミリア・スカーレット。幻想郷の一角を成す実力者で、その妹フランドール、魔法使いパチュリー、メイド長十六夜咲夜などの周囲の人材も加えて一大勢力といっていい。
 その中でも咲夜は常に傍らにいる存在と知られていただけに、大妖精は少なからず驚いていた。
「何があったんですか?」
 興味が湧けば、チルノたちより精神的に老成していても根は妖精。根掘り葉掘りと聞いてみたくなる。
「ふふふ、ちょっとヤンチャをね」
 可愛らしく小首を傾げてみせる咲夜。だが、その回答には嫌な想像力しか働かない大妖精だった。
「そんなわけでお嬢様から暇を出されて、一人ぼっちでとてもロンリーなのです。『いつも手の届くところへ人外幼女を!』これが私のキャッチフレーズだというのに」
 治安関係者以外はキャッチできそうもないフレーズを堂々と宣言されても、大妖精としては非常に困る。
 美人だが、挙動不審の変態。しかも、目の前に現れたこの難敵は叩きだせるような手合いでもない。
 今できることは、少しでも情報を引き出すことだけだった。 
「結局、咲夜さんは何でうちにきたのですか?」
「そんなの、決まっています」
 咲夜がちらりと視線を向けたのは、安らかなチルノの寝顔だった。
「ナイス、ロリ」
「帰れー!」
 もはや、腕を振り上げての絶叫だった。それにも関わらず、咲夜は何処吹く風といった具合に涼しげな様子。
 逆に、飛び起きたチルノの怯えたような視線に気づく。いけない、落ち着くんだと、我に返る大妖精。ここを穏便にやり過ごして帰せば、チルノとの楽しい生活が始まるのだから。これは、そのための最終関門。
 めまいを堪えて深呼吸。
 そうだ、三月精の住処を教えてあげよう。あちらの方がよりどりみどりですよ、と。
 いいよね? あいつら、この前チルノちゃんに喧嘩売っていたし。
 妖精にあるまじき黒い企みを秘めたまま、チルノを玄関口まで引っ張っていく。
「チルノちゃん、実は咲夜さんがうちに泊まりたいと言っているけど、うちは狭いから代わりに……」
「追い出すんだね、大ちゃん。あたいに任せて!」
「待て」
 とめる間もなく、チルノは咲夜の元へひとっとび。
 青ざめる大妖精。
 最後まで聞いてよ、このお馬鹿。だが、それを含めて愛している。
 動揺のあまりに錯綜する思考だった。
「咲夜! あたいにコテンパンにされたくないなら、出て行くことね!」
 腰に片手をあて、正面から指を差すチルノ。
 気が気でない大妖精を余所に、咲夜は激昂する様子も見せない。
「チルチル、ちょっと」
 ただ、片手を挙げて手招きのポーズ。
「え、なに?」
 戸惑いつつも、素直に近づくチルノの耳元に唇をよせた。
 二言、三言、何事か囁き続ける。
 頻繁に頷くチルノの様子に、大妖精の不安は際限なく積もりゆく。
 気にかかるのは、チルノの口元に浮かんだ不敵な笑み。大妖精は長年の付き合いから、思い込みで突っ走るその前の兆候だと気づいていた。
「チルノちゃん、一端、戻ってきて!」
 大妖精の強い口調を受けて、弾かれたように咲夜から離れるチルノ。
 ほっと一息の大妖精へ、戻ってくるなりチルノは言葉の榴弾を投げつけた。
「大ちゃん、あたいって実は幻想郷四天王の一人なんだよ!」
「なに、その設定!?」
 驚愕の大妖精。
「そう。そして私は幻想郷四天王に仕える暗黒メイド大帝、十六夜咲夜。よって、チルチルの傍にいなければならぬ」
 追い討ちをかける咲夜は、肩書きが幻想郷四天王よりも凄いことになっている。
「チルノちゃんに何吹き込んだの!?」
「隠されていた真実ですよ。幻想郷四天王、ルーミア、チルノ、フランドールお嬢様、レミリアお嬢様。いずれも負けず劣らずの西洋人外幼女。身近なところから選出しました」
 選考基準に若干の偏りが感じられるが、大妖精はつっこむどころではない。
「ちなみに、人外幼女にありがちな『見た目幼女で中身は老成』ってのは、私は違うと思うのです。精神的に幼い部分は絶対に必要と思いませんか!」
「すいません、十分間ほど息の根を止めていてください」
 天から啓示でも受けたかのような世迷言を切って捨てながら、大妖精はチルノの両肩を力の限りに揺らしていた。
「チルノちゃん、しっかりして!」
「……はっ」
 ようやく、チルノも正気を取り戻したようだ。
 心配げにチルノの様子を伺う大妖精。
「大丈夫、チルノちゃん」
 大妖精の眼差しに、チルノはこくんと頷く。
「うん、大丈夫だよ。なんたって、四天王だもん!」
 ちっとも大丈夫ではなかった。
 チルノの肩を掴んだまま、流れる涙を止めることができない大妖精。
「そういうわけで、今日から世話になります」
 諸悪の根源の暢気そうな声に、もはや噛み付く気力も起きなかった。


 こんな有様だというのに、食卓はそれなりに賑やかだった。
「醤油さしをとってくれないか、お母ちゃん」
「うっさい。誰がお母ちゃんですか」
 乱暴に醤油さしを咲夜の前に置く大妖精。
「大ちゃん、これ美味しい!」
「本当? 喜んでもられて、嬉しいな」
 うってかわって、満面の笑みでチルノの賞賛に応える。
 今回の料理への大妖精の気合が入りようは尋常ではなかった。
 料理を美味しそうにかきこむチルノを、幸せそうに見つめる大妖精。頃合を見計らい、チルノの傍へ。「チルノちゃん、ほっぺに食べ残しがついているよ」と囁きながら、そっと唇をよせる。「あっ」触れ合う温もりに、思わず漏れるチルノの吐息。大胆な行動に、二人は頬を赤らめて見つめあうのだった…… という、二人っきりの甘々空間になる予定だったのだが。
「なんという美味さだ。シェフを、シェフを呼んでくれ、お礼を言いたい!」
 現実には、水入らずどころではない濁流が二人の間に流れ込んでいた。
「はいはい」
 全ての未来予想図をぶち壊した闖入者を、気の無い素振りであしらう大妖精。
 とはいえ、褒められて悪い気はしなかった。
 変人だけど、悪い人ではないのかもしれない。
「おかわり」
 だが、大妖精の目前には突き出されたお茶碗。無表情の咲夜だった。
 その横柄さが大妖精の癇に障る。
「自分でやって下さい。というか、あなたはメイドですよね? 料理の時だって、少しは手伝ってくれてもいいと思うんですけど!」
「それは偏見です。メイドさんだからって、炊事、洗濯、家事、掃除に夜のお相手まで期待されましても困ります」
「最後のは何!」
 激昂のあまり立ち上がる大妖精。
 チルノの情操教育によろしくないことは言わない欲しいと、目に意思をこめて睨みつける。
 しかし、当のチルノは不思議そうに咲夜と大妖精を見上げていた。
「どうしたの、大ちゃん。退屈な夜も遊び相手になってくれるってことだよね」
 純真なチルノの台詞に、思わずよろける大妖精。『精神的にも幼い部分は絶対必要』そんな、ついさっき聞いた台詞が克明にリフレイン。
 違う、踏みとどまるんだ大妖精。自分を落ち着かせるため、全身を使っての深呼吸。
「おかわり、もってきます」
 ひったくるように、咲夜の茶碗を奪う。
 これ以上、この不良メイドをつつくと何が飛び出すかしれたものではない。まずは当たりさわりなく明日を迎えて、それから本格的に対策を練らないと。
 台所でおかわりを盛りながら、大妖精は咲夜の扱いについて一定の指針を心に定める。
 居間に戻ってきた咲夜を迎えのは、楽しげな笑いのさざなみだった。
 チルノと咲夜が、二人で何事か親しげに話している。
「お待たせしました」
 二人の間に、音をたてて茶碗をおく大妖精。
「サンクスギビング」
 やっかみ紛れの行動だったが、咲夜は気を悪くした用もなくお礼らしき言葉を口にした。
 そう返されれば、何もいえない大妖精。解れかけの不機嫌をため息に吐き出して、席に戻る。
「ところで、二人とも、楽しそうに何を話していたんですか?」
 言葉は二人に問いかけてはいたが、大妖精の視線はまともな返事が期待できるチルノに向けられていた。
「うん、咲夜が幻想郷に来る前の話。サイタマとかいう人里で、魔法少女をしていたんだって」
「へー、そうなんだ。でも、ごめん、何を言っているかさっぱりわからないよ」
 なぜだろう。大妖精は目を輝かせて教えてくれるチルノを、少し遠くに感じてしまう。
 物悲しい沈黙を裂くように、かちゃりと茶碗に箸を置く音が響いた。
 瞬く間におかわりを平らげたかつての魔法少女だった。
「ご馳走様。では、魔法少女咲夜ちゃんの第二話ですよ」
「うん! 前回の最後で、悪の組織の本拠地を見つけだしたんだよね」
 いきなりクライマックスすぎるだろうと大妖精は思うが、キラキラした瞳で続きを待つチルノを見ると、水を差す気にはなれない。
 咲夜のインチキ臭さに早く気づいて欲しいのだが。
「私はついに悪の本拠地、西日暮里に踏み込みました。ですが、裏をかかれました。テナント料の未払いで奴らはすでに退去した後でした」
「大家には弱いんだ」
 大妖精の脳裏に、とぼとぼと本拠地から離れていく悪の組織の面々が思い浮かぶ。
「もちろん、私は次の拠点を探し出して間髪入れず追撃しました。これが有名な越谷殲滅戦です」
「よくわからないけど、そこはそっとしてあげようよ」
 悪の組織寄りにならざるを得ない大妖精。敵の敵は味方だ。
「咲夜って、すごいんだ」
 しかし、第一話から聞いているチルノは、すっかり魔法少女咲夜のファンになってしまっている。
 大妖精にとって、まったく面白くない展開だった。
「そして徹底的な追討戦の果てに、ついに悪の組織は滅んだのです。決め手は、2回目の不渡り手形でした」
「え、えええ!?」
 世知辛い滅亡原因に大妖精は声を上げる。ずらりと並んだ悪の幹部たちが、記者たちに向けて一斉に頭を下げる様子を幻視する。構成員は悪くないのですと、切々と訴える悪の大首領。
「大ちゃん、すごい話だったね」
「いや、私は構成員の再就職が気がかりでならないけど」
 興奮冷めやらぬチルノへ、大妖精の返事はどこか切ない。
 一方、ひとしきり話し終えた満足したのか、咲夜は大きく伸び。
 眠たげな視線を大妖精へ向ける。
「ところで大妖精さん。私の寝床はどこになります? チルチルに添い寝するのが従者としてあるべき姿かと存じますが」
 何気なく、とてつもないことを口走っていた。
「咲夜さんは、向こうの一番の離れです。あと、私たちの寝室にきたら相打ちになって果てる覚悟ですので、どうぞ安らかに明日の昼までお休みください」
 大妖精は笑顔のまま、精一杯の威嚇。
 それが一応は通じたのだろうか、それとも元々が性質が悪い冗談だったのだろうか。
「畏まりました。では、おやすみなさいませ」
 スカートの裾を両手でつまんで、優雅に会釈する咲夜。
 遠ざかる咲夜の背中を見送って、大妖精は疲労のこもったため息を一つ。疲れた。だが、恐らくは今日は一睡もできまい。
 体力のあるうちに、なんとしてでも明日中に解決策を見つけなければと、心に強く誓う大妖精であった。


 翌朝、ルーミアを探す咲夜と、その咲夜にすっかり懐いてしまったチルノが外出したのを見計らい、大妖精は動き出していた。
「そういうわけで、この諸問題を解決するため、第二回妖精サミットを開幕します」
 自宅の居間に召集した面々へ、厳かに宣言する。
「はあ」
 応じたのは、気がのらないサニーの返事だけ。
 大妖精を取り囲む面々は、サニー、ルナ、スターの三月精に、リリーホワイト。
 いずれも、近くで遊んでいたところを無理やり連れてこられたことだけが共通する。
「あれ、第二回ですか? 第一回はなんでしたっけ」
 小首を傾げるのは、黒髪の妖精スターサファイア。
「忘れたの?」
 その隣にはルナチャイルド。自分のくるくる巻き毛を指先で弄びながら、スターに笑いかける。
「稗田阿求の本の件でも、前にこの面子で集まったじゃない。その時はチルノもいたけど」
「あ」
 スターが思い至るのは、阿求の著書『幻想郷縁起』の出版時の集会。
 妖精の項目で、なぜ大妖精を除くメンバーが取り上げられたのか、しかも頭が悪いだの、弱いだの、回らないだのと、記述に悪意がありまくりな理由を探そうという主旨の集会だった。
 とはいえ、結局は原因にいたる前に散会となってしまったのだが。
 今思い返してみても、チルノが執筆中の原稿用紙を凍らせてくしゃくしゃにした悪戯が原因なのか、三月精が悪戯書き用に原稿用紙をごっそり盗みだしたのが原因なのか、稗田邸に春を告げにきたリリーホワイトが勢い余り、原稿をすべて春一番で吹き飛ばしたのが原因なのか、紆余曲折を経て出版間際となった原稿に、大妖精がチルノの項目へ「幻想郷一可愛い」とこっそり訂正を書き込んだのが原因なのか、理由はまったくもって定かではなかった。
 そんな具合に、問題解決にはまったく望みが薄い妖精ネットワークではあったが、つかめるものは藁でもありがたいのが大妖精の心情。
 大妖精は苦境を切々と訴えてみるが、それでもメンバーの反応は芳しくなかった。
「道理で大妖精の目のふちにクマができているわけね。でも、私たちには関係ないじゃない。帰っていいかしら?」
 三月精のリーダー格、サニーは不満げに口を尖らせていた。厄介事の火種を嗅ぎ取ったのだろう。
 一方、リリーホワイトは楽しげにふわふわと漂って、意見を言う様子も無い。
「いえ、あの人を放置しておくと明日にでもサニーさんたちの方へ行くでしょう。そうさせます」
 もうすでに君たちは巻き込まれているのです。もはや逃れることはできんぞと、大妖精の瞳が告げていた。
 こやつめ、ははは。三月精に乾いた笑みが浮かぶ。
「ううう、咲夜か……紅魔館に忍び込んだときは散々な目に合わされたわね」
 サニーが思い浮かべるのは、以前、紅魔館に別荘をつくりに忍び込んだ時のことだろう。
 今の咲夜は、そのときの昨夜とは対応も異なるとは思うだが、どちらにせよ辛い結末になることは間違いない。
「でも、私たちが会ったメイド長さんと、昨日こちらにきたメイド長さん。話を聞く限り、性格的に同一人物とは思えないのですけど」
 小首を傾げていぶかしむのはスター。サニーと同じく紅魔館で捕まったことがあるだけに、違和感を感じているようだ。
 伝え聞く咲夜の姿と昨日の有様。確かに、大妖精にはそのギャップを説明できない。
「別人じゃないの? 春はよくそういう人がいるわね」
 ルナチャイルドは、話のオチは見えたとばかりにニヤリと笑う。
 直接会ったことのある三月精の説得力に、劣勢に立たされる大妖精。
「そういう人が沢山いるからこその春ですよー」
 話の筋から外れたことを朗らかに告げるリリーホワイトは、この際無視した。
「紅魔館のメイド長で間違いないと思います。チルノちゃんは一目で咲夜だと言いましたし」
 大妖精の精一杯の抗弁は、サニーの苦笑を招く。
「でも、言ったのはチルノでしょ。あてにならないわよ」
「同感。相手がメイド長じゃないなら、相手は一般人で決まりね」
「じゃあ、力づくでたたき出しちゃいましょう」
 頷き合うサニーたち。
 力いっぱいチルノをないがしろにした結論に、大妖精のこめかみに青筋が浮き上がる。
「あなたたち……」
 続く、表に出なさいという台詞は、乾いたノックの音に遮られていた。
 一斉に玄関口を注視する妖精たち。
「ただいま戻りました。申し訳ありませんが、両手がふさがっていますので開けていただけますか」
 続けて、当の咲夜の声が聞こえてくる。
「あら、別人にしては声も似ているじゃない。私が化けの皮を剥いでくるわね」
 余裕綽々のルナ。一方、顔を見合わせるサニーとスター。
 もちろん、ルナはそんな様子に気づかず、意気揚々と玄関口までたどりついて扉を開ける。
 ルナが最初に見たのは、楽しげな面のチルノと、その奥に佇むメイド服。視界を上にあげてゆくと、メイド服の肩から蜂蜜色の何かが垂れ下がっているのが見えた。騒ぎ出す鼓動を抑えて、目を凝らす。
 蜂蜜色は、ルーミアの髪の色だった。
 闇の妖怪を肩に担ぎ上げて、メイド服の女性が仁王立ち。
 どう好意的に見ても人攫い以外の何者でもないその女性は、やはり十六夜咲夜その人であった。
「で、でたー!」
 あまりに衝撃的な邂逅に、絶叫するなり助けを求めて振り返るルナ。
 しかし、サミット会場だった居間は無人と化していた。代わりに、開け放たれた窓が見えるばかり。
「どういたしました、魅惑の縦ロールさん?」
 背後から、優しげな言葉とともに肩に手がのせられていた。
 動き出した気配はなかった。いつ間をつめたのか検討もつかない動きで、それがますます別人説を雄弁に否定する。
「今日はお日柄もよろしいですし、ゆっくりしていってください」
「いえ、あの! 急用を思い出したので帰ります!」
 必死の言葉にも関わらず、肩に置かれた手はがっちりとルナを離さない。
「何をおっしゃいます。『人外幼女千年王国』の建国以上に大切な用事などないと思いますよ?」
「人外幼女千年王国!?」
 初耳の謎単語に、ルナの声も裏返る。
「そうです。人外幼女たちに私がたった一人でお仕えするという、夢のワンダーランドです」
 何、その病的な逆ピラミッドは。
 しかし、ルナのつっこみはもはや声にならない。
 なにやら圧倒的な咲夜の存在感を前に、腰が抜けてへたりこむしかなかったのだった。


 大妖精の家のほど近く、木陰に息を潜める妖精たちがいた。
「ルナを置いてきちゃった……助けないと!」
 家の様子を伺いながらのサニーの言葉。だが、応じる声はない。スターですら黒髪をふるふると揺らして不同意を示していた。
 付き合いの浅い大妖精はなおのこと同調しない。
 リリーホワイトは、さきほど春風に漂うタンポポの種を追って行き、そのまま行方不明。
「まったく、頼りにならないわね!」
 サニーの苛立ちはもっともだった。
 スターは膨れっ面の友人に苦笑を向ける。
「怒らないで、サニー。もちろん最終的に助けることには同意するけど、まずは様子を伺って、相手が隙を見せた後がいいと私は思うの」
「それは、わかるわよ」
 諭されれば、サニーの態度も幾分和らぐ。
「……じゃあ様子を探ってくるから、ここで待っていて」
 台詞が終わるなり、サニーの姿は光に解けるように消えうせていた。
 妖精サニーの光を屈折させる能力。確かに偵察向きの能力だったが、羽ばたきの音でうっすらと方角がわかるのはご愛嬌。もとより、音を消すルナと、周囲の気配を掴めるスターがいてこそ、それなりに効果的な能力なのだから。
 だが、ないものねだりをしても仕方がない。羽音は、ためらうことなく窓の辺へ。
 サニーはそっと屋内を覗き込む。
 先ほどまで自分たちがいた何の変哲もなかったはずの居間に、奇妙な風景が広がっていた。
 まず、部屋の中央には咲夜がいる。その両手に掲げられているのは紙切れ。よく見ると、奇抜なシンボルマークが描かれていた。一見、人の目を抽象化したようなマークだが、目尻のあたありから触手らしきものが左右に各3本、うにゃうにゃと伸びている。
 捕まっているはずのチルノ、ルーミア、ルナの三名は、咲夜を扇状に囲むような位置に腰を下ろしていた。皆、礼儀正しく正座の姿勢で、ぽやーっとした笑顔。
 ぞわりとした冷たいものが背筋を滑り落ちるサニー。
 身震いを堪えていると、咲夜の熱っぽい声が聞こえてきた。嫌な予感がするものの、耳を傾けざるを得ない。
「我々、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教団は、ついに幻想郷の真実にたどり着きました! 幻想郷を創造したのは、空飛ぶスパゲッティ・モンスター様なのです!」
 サニーは、口を開いたまま、物言わぬ彫像と化した。彫像のタイトルは『脳みそオーバーヒート』
 そんなサニーを知るよしもない咲夜は、高々とその手のシンボルマークを掲げている。
 話の流れから言うと、恐らくそれが空飛ぶスパゲッティ・モンスターと見受けられるが、あんな触手お化けに幻想郷がつくられてたまるか。
 それなのに、咲夜を取り囲む面々は陶酔の表情でシンボルマークを見つめていた。
「いいですか、幻想郷に優れた人外幼女が多いのは、空飛ぶスパゲッティ・モンスター様が見えざる触手であなたたちの頭を上から押さえて、大きくさせないようにしていることが原因です。あなたがたは、すべて空飛ぶスパゲッティ・モンスター様の賜物。感謝いたします!」
 滔々と、とてつもない教義を語り始める咲夜。
 サニーの右手が、知らず自分の頭の上へ。不意に、誰かに頭を抑えれているような気分になってしまったのだ。
「そして、あなた方と同様に私の胸も見えざる触手に押さえつけられていますが、これは選ばれし民の証のなのです。貧しき胸は救われます。主の慈悲を、今一度讃えましょう!」
「触手、ばんざーい! 空飛ぶスパゲッティ・モンスター様、ばんざーい!」
 自分勝手な咲夜の教えを、万雷の歓呼で讃えるチルノたち。
 会場はとてもつない熱気だった。もう、隙をみて救い出すとかそういう次元ではない。
 そっと、サニーは狂乱の窓辺を後にする。
「どうでした?」
 しかし、待ち受ける大妖精たちに、アレをなんと説明すればいいものやら検討もつかなかった。
 サニーは、知っている言葉を何とか並べていく。
「ええと、なんていうか、楽しそうだった。それに悪質でもなさそうだったけど、若干、カルト化していたわ」
「どういうことなの、サニー。さっぱりわからない」
 スターの疑念はまったくもってその通りだが、サニーだってこれが精一杯だ。
「……もう、直接見てきてよ! 大丈夫。あいつら、外の様子なんて、これっぽっちも気にしていないから」
 疲れたように言い放つサニー。
 スターと大妖精は顔を見合わせて、小さく頷く。妖精には珍しく慎重な二人だが、好奇心の誘惑は断ち難い。
 二人、ふわふわと家の窓辺へ、静かに飛んでいく。
 サニーがそうしたように、二人はそっと窓辺を覗き込んだ。
 しかし、カーテンの隙間から覗く部屋の様子に、サニーから聞いた『楽しそう』という要素はまったく感じられない。
 部屋は薄暗く、ロウソクの揺らぐ光と、カーテンの端から漏れ落ちる陽光だけが仄かな光源。
 そこに集う面々は、異様だった。全員に共通するのは全身を覆う黒いローブ。背丈の違いで、かろうじて咲夜のみが見分けられる。
 だが、それらはまだ許される。部屋の陰鬱な空気を絶望的に決定づけているのは、部屋の中央に描かれた精緻な魔法陣。咲夜たちは、その淡く光る魔法陣を中心に円になっていた。
「では、これより人外少女千年王国の建国のため、祈りの儀式を行う」
 厳かに響く咲夜の声が、儀式の始まりを告げる。
「フングルイ・ムグルウナフ・クトゥルフ・ルルイエ・ウガ=ナグル・フタグン……」
 いきなり、チルノの幼い声が謎の呪文を唱えだした。
 妙に、クトゥルフという単語が大妖精の印象に残る。
 呼応するように、ルーミアの声。
「イア! イア! ハスタア! ハスタア・クフアヤク・ブルグトム・ブグトラグルン……」
 貴方、そんなにハキハキとモノをいえたのかと、別の驚きが胸をよぎるスター。
 極めつけは、ルナだった。
「イエ! イエ! シュブ=ニグラス! いでさせ給え、千匹の仔を孕みし森の黒山羊よ」
 そんな山羊、明らかに羊飼いの手に余る。楽しい森の仲間とは思えなかった。
 異様な熱気が渦巻く室内。確かに、これはもう隙を見て助け出すとかそういう次元ではない。
 呆然とルナの様子に見入っているスターの手を引き、大妖精は邪教の館と化した自宅から撤退する。
 身を潜めている木陰までいくと、一人で寂しかったのかサニーが飛び出してきた。
 大妖精に、悪戯っぽい眼差しをむけてくる。
「ねえ、空飛ぶスパゲッティ・モンスターはどうだった? 可笑しかったでしょ」
 大妖精は、大きく頭を横に振った。
「いえ、あれは笑えません。というか、空飛ぶスパゲッティ・モンスターって何ですか。ひょっとして、寝ぼけています?」
「大妖精さんの言うとおりよ、サニー。貴方の独特な言語センスは評価するけど、冗談を言っている場合ではないでしょう」
「え、なんで!?」
 予想外の反応に、思わず取り乱すサニー。
 その様子に、大妖精はお互いの情報を擦り合わせる必要性を感じた。
「私とスターさんが見たのは、なんだか怖い儀式みたいものですよ。最後は、なんか変てこな山羊さんに呼びかけていました」
 大妖精の言葉を、頷きで追認するスター。
「概ね、そのとおりです。ですが、大妖精さん。大いなるシュブ=ニグラス様に『変てこ』とはなんですか」
「……ええと、うん、ごめんなさい」
 深く関わりたくないので、おざなりに謝意を口にする大妖精。
 大妖精の瞳に浮かぶ感情は悲壮。頼れるのは自分だけだった。
 どうしてこんなことになったんだろう。やるせなさが大妖精の心にじんわりと広がっていく。咲夜の凄まじい影響力に、わずか一日で自分の生活圏はズタズタだ。
「大変なことになったわね」
 大妖精の表情に差した陰に気がついて、サニーもお付き合いのため息。
 だが、大妖精は陰鬱さを抱えたまま、薄く笑っていた。
「いえ、これぐらいはまだ平気ですよ」
 大妖精の胸に去来するのは、雪解けを間近にした季節の出来事。

 雪氷とけて雨水となる頃、大妖精は冬の妖怪レティの来訪を受けていた。
 玄関口でいぶかしむ大妖精。チルノという共通の友人がいるとはいえ、冬はあまり外に出ない大妖精はレティと接点がほとんどなかった。
「チルノはいるかしら?」
 とはいえ、レティの目的はいつもと同じ。
「いえ、うちには来ていませんけど……チルノちゃん、自分の家にいなかったんですか?」
「ええ、チルノの家に行ったのだけど留守だったわ。まったく、今日、会えないと困るのよね」
 両手を胸の前で組んで、ため息。白い吐息が、先月より大分和らいだ空気に解けた。
 空には、寒気を退ける遠慮のないホカホカの日差し。レティは不機嫌そうに、顔に差し込む陽光を手のひらで遮っている。
「今日? あ、冬の終わりのお別れですね」
 毎年のことなので、大妖精は得心が行く。
 春を迎える前に、レティは暑さをやり過ごせる場所を探して、チルノたちの前から姿を消す。その前に、お別れの挨拶をしていくのが恒例となっていた。
「おかしいですね。チルノちゃん、そろそろだと分かっているはずなのに。もしかして、忘れてしまったのかな?」
 眉を心配げにひそめているが、口の端には隠し切れない薄笑い。
 一つの季節だけとはいえ、ほとんどチルノを独占された季節の終わりへの喜びを堪えることはできない。
 できることならば、妖怪の山の頂に立ち、今日の日の出を万歳三唱で迎えたかったほどだった。
 だが、ほくそ笑む大妖精の表情は、次のレティの言葉で瞬時に凍りつく。
「今年はチルノを連れて避暑地に行こうと思っていたのに」
「えっ!」
「一緒にいれば、大分過ごしやすそうでしょう?」
 にっこりと、カウンターの微笑を差し向けるレティ。
 確かに、チルノの季節を問わないダダ漏れの冷気は魅力的かもしれない。大妖精の強張った表情は、みるみる青ざめていく。
「チルノちゃんは、ここを離れるのは嫌がると思います」
 かろうじてひねり出した反対を、レティはあっけらかんと笑い飛ばした。
「そんなの、連れて行っちゃえばどうにでもなるわよ」
 冗談の色合いが濃いとはいえ、これには大妖精の瞳に炎がともる。
「今、はっきりと分かりました」
「えっ?」
「レティさんは、チルノちゃんの体が目当てなんですね?」
「えええっ!」
 今度はレティが慌てふためく番だった。
「いや、そんな言い方をされれば、そうかもしれないけど……」
「そんな相手にチルノちゃんを連れていかせるなんて、私が絶対にさせません」
 ぴしゃりと言い放つ大妖精。
 これにはレティも目を細めて、凍えた眼差しを大妖精へくれてやる。
「だったら、そのためにあなたは何をするというのかしら?」
 見詰め合う二人。
 かち合う視線が、剣呑に絡み合う。
 優位を示すように、レティの手には一枚のスペルカード。
 が、大妖精に動揺はない。
 大妖精が狙うのは、スペルカード発動前、至近距離の高速弾だった。差し違えても、構わない。
 ふうと、大妖精が息を吐き出した、発動のまさに一呼吸前。
「大ちゃーん、遊びに来たよー! あ、よかった、レティもいる!」
 暢気な声が二人の間に割り込んでくる。
「チルノちゃん?」
 声の方向に視線を向けると、こちらに向かってくるチルノの姿。
 気勢をそがれて立ち尽くす二人の前に、チルノはいつものように勢いよく降り立った。
「どうしたの、チルノ? そんなに慌てて」
 勢い余ってつんのめるチルノをいつものように真正面から抱きとめてから、レティは腕の中の少女に問いかける。
「うん、今日はあんまり寒くないから、大ちゃんも一緒に遊べるかなと思って探していたの」
「あら、そうだったの。なら、今日はそうしましょうね」
 チルノの優しい提案に、了承の微笑みで応えるレティ。
「それじゃあ、行こう!」
 元気よく宣言するなり、チルノは大妖精とレティの間に駆け寄る。
 そして、右手で大妖精の手を、左手でレティの手をぎゅっと握りしめた。
 困惑してチルノを覗き込む二人に、チルノはそれぞれ満面の笑みを返す。
「あたいたち、皆仲良しだね!」
 大妖精とレティに躊躇いはなかった。
「ええ、そうよ」
「決まっているじゃない、チルノちゃん」
 その言葉を裏付けるように、親しげな微笑み合う二人。だが、見つめあう瞳だけは厳冬期の吹雪もかくやという有様。
 真実のデタントは、まだ遠い彼方にあるようだった。

「あの冷戦時代に比べれば、これ程度の修羅は物の数ではありませんよ。ふふふ」
「おーい、大妖精さん。戻ってきてー!」
 サニーの切羽詰った声が、回想に耽りつつ含み笑いをもらしていた大妖精を現実に引き戻す。
「すいません、考え事をしていました。何か状況に変化がありましたか?」
「うん、行方知らずになっていたリリーホワイトがようやく戻ってきたんだけど」
 だが、サニーの言葉とは裏腹に春告精の姿はどこにも見当たらない。
 視線で問いかける大妖精に、サニーの指先が示したのは麗しの我が家。
「よせばいいのに家の周りでふわふわ飛んでいるものだから、出てきた咲夜にあっという間に捕まったわ」
「こわっ」
 大妖精の反応がどこか他人事なのは、元々、リリーホワイトを戦力とみなしていなかったためか。
 ともあれ、事態はますます煮詰まりつつある。
 現状でもチルノ、ルナ、ルーミア、リリーホワイトが咲夜の手に落ちた。
 もはや、人外幼女千年王国の建国は目前に迫りつつある。
「嫌! そんなならず者国家が建国されたら、どこぞの巫女に爆撃されちゃう」
 その様子がありありと頭に浮かぶだけに、軽くめまいを覚える大妖精だった。
「大丈夫ですよ、大妖精さん」
 大妖精を励ます確信に満ちた声はスターサファイア。
「何かわかったの、スター?」
 物の動きを探る能力で家の様子を注視していたスターの言葉だけに、大妖精とサニーの期待も募る。
 スターは二人の視線を、見るものを安心させる柔和な微笑で受け止めて、告げた。
「もうすぐ、シュブ=ニグラス様がこの地に現れます。博麗の巫女など物の数ではありません」
「サニーさん。今すぐ、突撃しましょう!」
「同感ね、大妖精!」
 このままでは博麗の巫女どころかスキマ妖怪にまでお出でいただくことになる。
 覚悟は決まった。
「まずは捕まっている子たちを咲夜から引き離して正気に戻さないと!」
 サニーの提案に頷く大妖精。
 思い返せば、チルノたちは咲夜の放つ謎の磁場めいたものに巻き込まれた印象が強い。
 こういう場面では、リーダーシップを取れるサニーが案外頼もしかった。
 続いて、サニーは人差し指を立てたまま具体的な作戦を立案する。
「いくら相手が凄腕でも相手は一人。一斉に押し入れば、一人が捕まってもその隙に残りの二人が動けるわ。それぞれ一人づつ連れて逃げれば差し引きプラスのはずよ」
 戦力の補充を意図する作戦。だが、その前提を崩す咲夜の能力の詳細を妖精たちは知らなかった。
 とはいえ、知っていたところで動くしかない局面。
 むしろ、知らないからこそ躊躇なく動ける分だけまだマシなのかもしれない。
「確保するのは、私がルナ。大妖精はチルノね。むかつくけど、あいつは強いから。スターはルーミアをお願い。曲がりなりにも妖怪さんだから、それなりの戦力になってくれるはず」
 大妖精の指示に頷くスターとルナ。軽やかに見捨てられるリリーホワイトだった。
「スター、家の様子はどう?」
「五人とも、部屋の奥のほうにいるわ。玄関口には気配なし」
「オッケー。いくわよ」
 三人の姿が掻き消えた。
 サニーの能力に姿を隠して、三人はそろそろと玄関口に歩き出す。
「すごくドキドキするわね」
 緊張感を紛らわせるためか、軽口を叩くサニー。
 大妖精は咎められない。ドキドキワクワクは、妖精たちにとって最も大切なことだからだ。
 三人の決死の努力が実ったのか、息を潜めたまま玄関口までは何事もなく到着。
 気配を探るスターに変わりがないことを確認して、先頭を行くサニーが身をかがめて扉の前へ。小さな手をノブに押し当てた。
 音が立つことを恐れて、呼吸まで止めて慎重にゆっくりと引いていく。
 ようやく、扉と屋内の間にわずかな空間が生まれた。
 大妖精は扉の隙間に視線をねじ込んで様子を探るが、角度が足りず、奥まではわからない。
 押し殺したスターの囁きが、大妖精の耳朶を打つ。
「誰も動き出す気配はないわね。やるなら、今かな」
 スターの言葉を後押しするように、大妖精の肩に触れるサニーの手のひら。
 短い息を吐き出す。
 決意をこめて、大妖精の深い頷き。
 その合図をきっかりにして、三人は屋内へ身を滑らせた。
 不意をつける時間は、ごくわずか。我先にと、居間へ。
「え!?」
 それなのに、先頭を駆けるサニーは不意に足を止めていた。
 立ち尽くすその傍らを、構わず抜けようとする大妖精。だが、同じく足を止める。
 居間には、予期せぬ光景が広がっていた。

「春ですよー」

 暢気な声は、もちろんリリーホワイトのもの。
 両手を広げて、今更ながらの春を精一杯告げている。
 だが、異様なのは残りのメンバー。
 チルノに、ルナ、ルーミア、あまつさえ咲夜ですら同じポーズ。両手を広げた姿勢で、屋内をあてどなくさまよっている。
 皆、一様に虚ろな目つき。
「……春ですよー」
 それぞれが、陰鬱な声でリリーホワイトの言葉を繰り返していた。
 踏み込んできた大妖精たちの様子など、目にも入らぬという有様。
「あなた、何したの?」
 恐る恐る、春告精に尋ねるサニー。
「春ですからー」
 春爛漫の笑顔で、答えにならない答えを返された。
 春真っ盛りのリリーホワイト。サニーは、その恐ろしさの一端に触れた思いだった。
 一方、大妖精は深く考えない。いや、深く考えることにはもう疲れ果てていた。
 大切なのは、虚ろな表情でさ迷う咲夜は脅威ではないという事実。
「チルノちゃん!」
 チルノの肩を、力任せにがくがくと揺らす。光を取り戻していくチルノの瞳。
「……あれ、大ちゃん。どうしたの?」
 大妖精の真剣な眼差しに、状況がつかめないのか小首を傾げる。
「チルノちゃん!」
 その、当たり前の反応が嬉しくて、大妖精はチルノに強くしがみついた。
「あれ、ここはどーこー?」
 背中の方から聞こえてくる間の抜けた声はルーミアか。
 振り向くと、ルナチャイルドも正気に戻った眼差しでサニーとスターを見上げていた。
 ついに、我が家に平穏が戻ってきたことを実感する。
 大妖精の心に湧き上がって来る喜び。
「チルノちゃん。やった!」
「えーと、よくわからないけど、やったね大ちゃん!」
 困惑を浮かべたまま、義理堅く一緒に喜んでくれるチルノ。
 だが、大妖精の笑顔は見るも無残に凍りつく。
 目の前で、むっくりと起き上がったのは十六夜咲夜。
 咲夜は、大妖精とチルノに視線を向け、次に三月精、まだ惚けるルーミアからリリーホワイトへと、順に見つめる。
 恐怖から、沈黙の殻にこもる妖精たち。
 一通り、全員を見やって、咲夜はようやく口を開いた。
「……私は、なにをしていたのでしょうか?」
 咲夜の口調は戸惑いに震えていた。
 それでも、三月精は気づく。
 かつて紅魔館で聞いた普段の口調に限りなく近いものだと。


 咲夜を中心に、全員がちゃぶ台を囲んでいた。
 ちゃぶ台に腰掛けてから、全員が落ち着くまでに要した時間は少々。大妖精が淹れたお茶が、湯気を失うほどの期間が必要となった。
 淹れなおそうかな、お茶請けのお煎餅もルーミア一人のせいで底をつきつつあるし。気を使って、大妖精が腰を上げかける寸前、咲夜が不意に頭を下げた。
「皆さんには色々とご迷惑をおかけしたようで、大変申し訳ありません」
 陳謝する咲夜からは、先ほどまでの超然とした雰囲気が消えうせている。顔を赤らめて、申し訳なさそうに俯き加減。
 しかし、謝られた側は戸惑いの視線を交わすばかり。
 この、かつての危険人物にどう接すればいいのか、一同、はかりかねていた。
 静まり返る面々。
 いたたまれない沈黙に、ルーミアの煎餅をかじる音だけが容赦なく響く。
「ええと、咲夜さんは今回のことは最初から覚えているのですね?」
 それとなく集中する視線に、切り出す役目を感じた大妖精が無難なところを話題にした。
「はい。うっすらと」
「うっすらと、ですか。では、はっきりと覚えてるのは、どこまでですか?」
 大妖精の追求に、咲夜は眉間に皺をよせて考える。
 我に返ったときは若干混乱気味だったものの、時間をおいて元の聡明さを取り戻した咲夜。
 回答に至る時間はそれほど要しなかった。
「昨日、お昼にフランドール様とお会いして……そうでした、シチューの味見をしたあたりまでははっきりと覚えています」
「シチュー?」
 聞き返したのはルーミア。シチューに異変を察したというより、食べ物の名前に反応しただけに見える。
「ええ。確かホワイトシチューで、具はジャガイモや人参、それにキノコでした。そこまではっきりと覚えています。ですが、それからなぜか記憶がはっきりとしません」
「それがお昼ごろで、うちに咲夜さんがきたのは夕方でした。その間に何があったのかも気になります。確か、暇を言いつけられたんですよね……あれ、咲夜さん?」
 大妖精の追求は、不意に震えだした咲夜の異変によって中断する。
「ど、どうしましょう!?」
 か細く呟き、自らの体を抱きしめる咲夜。
 苦悶にあえぐその表情は、教会に耐え難い罪を告白する罪人のようだった。
「私、お嬢様に許されないことをしてしまいました」
「一体、何をしたんですか!」
 危うく、よからぬ方向へ走りかける大妖精の想像力。
 だが、玄関口から不意に沸き起こった騒々しい足音に妄想がかき消される。
「咲夜!」
 足音に続く、玄関口からの聞きなれない呼び声。
 振り向いた大妖精の視界には、断りもなく玄関から駆け込んでくる二人の少女。二人とも、大妖精たちとあまり変わらない年恰好に見える。
「すいません、お邪魔しますよー」
 侵入者はもう一人。少女らの後に小走りで続く、2本の日傘を抱えた女性の姿があった。遠目でも、スタイルの良さがくっきりと浮かび上がる大人の女性。
 大妖精にはその格好に見覚えがある。確か、紅魔館の門番。
 そうなると、この穏やかな春の日差しにさえ日傘を必要とするこの二人の少女は……
「お嬢様、それにフランドール様まで!?」
 咲夜の驚愕は、大妖精の推察に裏づけを与えた。
 できれば肯定してほしくなかった大妖精。強大な吸血鬼の姉妹など、自宅に迎えるにはあまりにも畏れ多すぎる。
 だが、よく見ればそのカリスマの権化の様子が、ちょっとおかしい。
 姉のレミリアの服装は、可愛らしいピンクのスモック。大妖精の脳裏に園児服という単語が浮かぶが、まさか紅魔館の主がそんな服を着るわけがない。きっと、黄色の通園バックと日除け帽は何かの間違いだろう。しかし、胸には「ひまわり組れみりあ」という名札。どこからどうみても、非の打ち所なく園児スタイルだった。
「咲夜、私の服を全部この服に取り替えたことを許すわ。暇も取り消す。だから、戻ってきて! そして元の服のある場所を教えてちょうだい!」
 懐の深さを示すよりも、はるかに重大なものを失う台詞をレミリアは口にしていた。
「フランもあなたをおかしくさせたことを反省しているわ。魔理沙からもらった謎のキノコなんて、今後は使わせないから!」
 そいつか。幻想郷における傍迷惑の代名詞といえる少女の姿を、今実感として思い浮かべる大妖精。
 だが、そんな怒りも次に見た光景で吹き飛ぶ。
 レミリアが指し示す悪魔の妹は、これまた面妖な有様だった。
 紺色の縁が入った厚手の白シャツと、細い腰をくっきりと浮き出す紺色のショーツ型の体操着。露わになった太ももが眩しい。
 だが、真に面妖なのは服装ではない。目を引くのは真っ赤な背負いカバンと、カバンに釣り下がる「給食袋」と印刷された謎の小袋。そして、フランドールの口にあてがわれた、小ぶりの縦笛。
 これもまた、咲夜コーディネートだろうか。
「お嬢様方に、私はなんてことを……!」
 悔やんでいる台詞と裏腹に蕩けそうな昨夜の表情。推測は当たっているようだった。
「フラン、貴方も咲夜に帰ってきて欲しいでしょう?」
 ペポ。
 恐らく、フランドールは「うん」と言ったのだろうが、口に咥えた縦笛が奇妙な音階を奏でただけだった。
 代わって、後ろに控えていた門番が後を継ぐ。
「私としては、働き詰めの咲夜さんを休ませてあげたいなと思っていました。止まった時間の中ではなく、ゆったりと流れる時に身を任せて心を休ませてあげられれば、と。そういうわけで、今回をきっかけに心置きなく休んでもらえるようにと、私たちなりに努力をしました」
 頭をかきながら、情けない実情を暴露する門番。レミリアの要望にも反することだったが、誰も咎めようとはしない。
 咲夜の口元に浮かんだ微笑を、全員が注視している。
「何を似合わないこと言っているのよ、美鈴。そんな休みをもらっても、あなたたちが気がかりで休めないわ」
 他の誰に対するよりも親しげな昨夜の口調が、その真意を悟らせた。
 門番に悪戯っぽい笑顔が浮かぶ。
「はい、私も妖精メイドたちも力不足でした。咲夜さんがいないと醤油さしの場所もわからない状態なんです。今、紅魔館全体が熟年離婚の旦那さんみたいな状態なんですよ。すいませんが、また色々と教えてください」
 咲夜は無言だったが、嬉しげなその眼差しが、雄弁な答え。
 振り返って、大妖精らに一礼する。
「皆さん、お騒がせするだけお騒がせして申し訳ありませんでした。後ほど、改めてお詫びに伺いますが、本日のところは失礼させていただきますね」
 丁重な挨拶に大妖精は曖昧な笑顔で応じる。
 ようやく、この騒動も終わったか。
 安堵がため息に変わろうかとしたその時。
「帰っちゃうの?」
 悲しげな声は、チルノだった。
 咲夜を見上げる瞳は、常になく寂しげな色彩を帯びている。
「チルノ……」
 呟き、咲夜は屈みこむ。
 ぽふと、手のひらをチルノの頭にのせた。
「帰るけど、お別れということじゃないわよ。いつでも、紅魔館に遊びにきていいのだから」
 こくんと頷くチルノの頭を、咲夜は優しげに撫でる。
「それじゃあ、美味しいお菓子を用意して待っているわね、チルチル」
 咲夜の手が離れて、咲夜は翻って門番の元へと。手を差し出すと、門番は一瞬送れて1本の日傘を渡した。
 日傘を開こうとする咲夜の傍らには、レミリアの姿。フランドールは門番に寄り添う。
「では、御機嫌よう」
 瀟洒な挨拶を残して立ち去る紅魔館の一行を見送って、大妖精はちょっとだけ寂しくなっている自分に驚く。
 良くも悪くも巨大な存在感だった咲夜たち。いなくなると、自然と残された大きな空洞を目にしてしまう。
 先ほどチルノが咲夜を呼び止めた想いが、今更ながら大妖精にもわかった。
「それじゃあ、私たちもお暇するわ」
 続くのは、三月精。
「あ、ごめんね。今回、巻き込んじゃって」
 自然に謝罪が口をつく大妖精を、三月精たちも責めようとはしない。
「なんか、色々といいたいことがあったけど、疲れちゃってどうでもいいわ」
 ルナは疲れた笑いを浮かべていた。
 とりあえず、元に戻ったようで安堵する大妖精。
 一方、スターからはもれるため息。
「残念です。あと少しで旧支配者様がこの地に降臨したのに」
 約一名、元に戻りきってない予感がしたが、大妖精は気づかないふり。
 時間が解決してくれるだろう、きっと、恐らくは。
「皆帰るなら、このお煎餅は全部もらっていいのー?」
「そのまま、全部もっていって下さい。というか、ルーミアさんには清々しさすら感じる今日この頃です」
 食いしん坊を追い払った後、大妖精は今回の功労者、リリーホワイトがいなくなっていることに気づく。
 鋭鋒に溶けきらぬ冬が取り残された妖怪の山へ、最後の春を告げに向かっているのだろうか。

 こうして、家に残るのは大妖精とチルノだけとなった。
 ようやく元の二人に戻れた大妖精。だが、手放しで喜ぶ気にどうしてもなれない。先ほど咲夜たちを見送って感じた寂しさが、影を落としていた。
「チルノちゃん、寂しい?」
 自分の心の整理がつかないまま、意地の悪い質問をしてしまう。
「そ、そんなことないよ! 大ちゃんがいるし……」
 たどたどしい否定に、目を見張る大妖精。
 口の端がかろうじて微笑を形作る。チルノに気を使われたことが嬉しくもあり、同時に悲しくもあった。
 難しいなと、大妖精の心が呟く。
 自分にとって一番大切なことが、相手にとって一番大切とは限らない。
 自分にとって一番の幸せはチルノだが、チルノにとっての幸福はなんだろう。
 いや、悩まずとも答えはわかっている。
 自分やレティのような親しい人に囲まれることはもちろん、最強を口にして挑む自分を真正面から受け止める相手や、悪戯を咎める大ガマも含めて、力一杯遊べる環境が幸福の第一条件なのだろう。例え愚かなことでも躊躇うことなく全力を尽くすチルノ。だからこそ、チルノの傍にいると日常すらキラキラと輝いて見える。
 考えてみれば、簡単なことだった。
 自分の真の幸せは、チルノが幸せであること。
 チルノを傍に置くことだけでは幸せにはなれなかった。チルノから誰かを引き離そうとするのは、自分を不幸にしようとしているのと、同じこと。
「チルノちゃん、今度、紅魔館に遊びにいこうね」
「うん!」
 チルノには陰のない笑顔が何よりも似合う。
 釣られて、ほころんでいく大妖精の表情。

 いつしか、二人の笑い声が重なる。

 この上もなく幸福そうな二人だった。  
 


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