香霖と嘘とビデオテープ

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 誰にだって邪魔をされたくない一時というものが存在する。
 僕にとって、それは三日間かけて読み進めてきた書籍をつい読破しようとする、まさにこの瞬間だ。

「香霖、邪魔するぜ!」

 それまでの静寂を粉砕されて、僕は顔を上げる。
 梅雨明けのひたすらに青い空を背景に、白と黒の少女がそこにいた。開け放たれた扉からは、鮮明なセミの声。
 初夏の季節そのものを連れてこられたような騒がしさ。知らずため息がもれる。
 大体、お邪魔しますという挨拶には相手の平穏を破ることに気兼ねする響きを伴うはずだ。
 魔理沙にはまるで無縁の心理だと思うが、せめて今回ぐらいは読破まで、いや読後の余韻が消えるまで待ってもらいたかったものだ。
「香霖、大切なお客様にいらっしゃいませの一言ぐらいないのか」
 無視されたことが不満なのか、招かねざる客が偉そうに応対を促してくる。
「いらっしゃいませ。またのご来店をお待ちしております」
「帰らすなよ」
 ノリで帰ってくれるかと思ったが、そうもいかないらしい。
 こういう場合の魔理沙は、何か明確な目的を秘めていることが多い。用心しなければならない状況だ。特に気がかりなのは、常には着用していない肩がけのカバン。どんな厄介ごとが詰まっているのか、それともこの店のものを詰めていくのか、気がかりだ。
 軽く探りを入れてみる。
「魔理沙、例えば泥棒が挨拶をして店に入ってきたとする。その場合、泥棒は盗みをする気はないと考えてもいいのかい?」
「ああ、せいぜい強盗をするぐらいだぜ」
 実に大胆な犯行予告。罪を重ねる前にご帰宅願いたいところだ。
「魔理沙、今日は早めに店を閉めて在庫の整理でもしようかと思っていたのだけど、用事はなんだい?」
「ちょっと待ってくれ」
 言外に匂わせた意味合いを、魔理沙は当然に省みることもなく手近な箱に腰かける。
「魔理沙、商品の入った箱には座らないでくれ」
 苦情を言ってはみるものの、「変な線が沢山ついていて、取り出しにくんだよな」と呟きながら膝上のカバンを漁る魔理沙に声が届いた様子はまるでなかった。
 実はその箱に座られたくない理由は他にもある。
 今気がついたのだが……その箱は背が低く、こっちに向かって腰掛けられると角度的にスカートの中が少し見えてしまうのだ。
 空を飛んで移動する彼女たちはドロワーズを着用としているが、スカートの端からチラチラとのぞく白が気まずくて、僕は間後ろを向いて本を読む振りをする。
 香霖堂以外の魔理沙は、ここまで無防備ではない。
 この無防備さは、魔理沙が幼い頃に膝に抱き上げて本を読んであげたりしたその名残だろう。あの頃の僕らは同じ家に住む歳の離れた兄妹みたいなもので、今の僕らは違う家に住む歳の近い兄妹のようなものか。
「出てきたぜ!」
 思索に入りかけた僕を引き戻す魔理沙の声。
 振り向くと、魔理沙が得意げな眼差しと一台の機械を僕に向けていた。
 機械とわかったのは、僕の能力ゆえ。
「香霖、こいつの名前はなんだ?」
「ビデオカメラ」
 続いてその用途が思い浮かぶが、これは僕にとって新しい概念じゃないか。なんと説明すればいいのか。
「時間の流れを連続的に記録、再生することができる」
「ええと、もっとわかりやすく言うと?」
 苦労して並べた言葉も、魔理沙には飲み込みずらいようだ。自分でも固い言い方だとは思ったが。
 簡単な言葉に噛み砕くというのは、簡単な言葉を選ぼうとすればするほど難しい。いつかの本に『複雑と言う言葉ほど簡単な表現はない』と書いてあったことを思い出す。知らず言葉を求めてか、読みかけの本を触っていたものの、適切な言葉を吐き出してはくれなかった。
 だが、本の手触りにふと思い出した。魔理沙が幼かった頃、彼女に貸した本がどんな仕打ちをうけたのか。
「パラパラ漫画を思い出してくれればいいよ」
 合点したとばかりに手を打つ魔理沙。続いて何かを考え込み始める魔理沙を見ていると悪い予感がひしひしと心に迫る。心の平穏のため、僕は魔理沙から視線を外して片手で持つには少し大きなビデオカメラを眺めた。
 魔理沙は、こんな機械をどうやって手に入れたのだろうか。
「魔理沙、それは外の世界のものじゃないか?」
「結構前だけど外の世界から引越してきた守矢神社の早苗に霊夢が神社の立ち退きを迫られたことがあってさ。で、霊夢と挨拶に行ったら、案外気のいい奴らで意気投合したんだよ。今日も帰りがけに是非お土産を、と」
 絶対に嘘だ。
 まず、心象的にニヤニヤ笑いが嘘っぽい。立ち退きを迫られて挨拶というのも霊夢の性格的に嘘っぽい。よって、意気投合をすることもなく、必然としてお土産をよこすなどはありえない。第一、本当だと言うならばまず元の持ち主の早苗さんとやらに名前や用途を聞くべきでは。
 僕には「ヒャッハー、より取り見取りだったぜー」と、風呂敷を抱えて守矢神社を後にする魔理沙の姿が頭に浮かんだ。
 そのような危険分子には、早めにご退散願うに限る。
「それじゃあ魔理沙の用事は済んだかな? もうそろそろ……」
「香霖、『ビデオカメラ』のこの部分を押してみろ」
 わかっていたが、人の話を聞きやしない。
 悪戯っぽい仕草で機械のボタンを指し示す魔理沙は、僕が言うとおりにしないとテコでも動きそうになかった。
 さっき見た限り、呪われるとか、自爆するとか、そんな機能はなかったよな……
 若干の不安を覚えつつ押してみると、軽快な手応えと共にビデオカメラの蓋らしき部分が開く。それだけの仕掛けに少し拍子抜けした。魔理沙は何をいいたいのだろうか。
「香霖、この開いた隙間に何かはまりそうじゃないか。ほら、思い出せ。この前聞いたアレにもビデオという言葉があっただろ」
 魔理沙の言葉に、僕は記憶を呼び覚ます。
 そうだ、確か『絵と音を記録する』という用途があったが、使い方がわからず放置していたものがあった。
 確か『ビデオテープ』とかいうものだった。
 ……なんてこった、ビデオという符号がぴったり合うではないか。
「なるほど、今持ってくるよ。けど魔理沙、僕が忘れていたような物をよく覚えていたね」
「この店に何があるかは、大体目星はついているぜ」
 入念な犯行の下調べを得意げに自白する魔理沙。
 下手に突っ込んで居直り強盗になられるのもやぶ蛇だ。僕は倉庫からビデオテープの一山を持ち出してくる。
 魔理沙の細い指が、そっとビデオテープを差し込むと、テープは最初からそこにあったようにはまり込んだ。蓋を閉めると、あるべきところに収まった実感が沸く。
「ほら、私の睨んだとおりだ」
「はいはい、ご慧眼恐れ入りました」
 子供のようにはしゃぐ魔理沙に付き合いながら、僕もまんざらでもない気分だ。
 眠らせていた持ち物が再び生命を受けた。これは古道具屋の愉しみそのものじゃないか。
「それじゃあ、このビデオテープは全部もらっていくぜ」
「あ、魔理沙、まだ値段を決めてなかったから少し待ってくれ」
 古道具屋の愉悦に浮き足立った気持ちだったのだろう。魔理沙の言葉に反応した僕の台詞は、魔理沙が代金を払う気があると仮定した代物だった。
 まったく、愚かなことだ。
 あらかたのビデオテープをカバンに詰め込んで、すでに箒にまたがっている魔法使いには、通貨の概念があることすら疑わしい。
「じゃあ、後で教えてくれ。出世払いだ」
 魔法使いの出世ってなんだ。
 僕に疑問だけを残して、初夏の青空へと消えて行く魔理沙だった。
 まあ、厄介ごとが香霖堂から飛び出して他所にいくことは悪いことではない。それに魔理沙の蒐集物にはたまに掘り出し物もあって、お互いの蒐集物の交換で元はそれなりにとっている。今回だって後の利益のための投資なのだ。
 それが自分の心を慰めるまやかしだと気づかぬよう、僕は読みかけの本に視線を落とすのだった。



 あれから二週間が過ぎた。
 魔理沙の消えていった初夏の空は、いまや入道雲を抱える真夏の空。
 窓を全開にしても、風が凪いで暑気が屋内にとどまっている。風鈴の涼しげな音色も途絶えがちで、喧しいセミの鳴き声だけが止むことを知らない。
 お客さんの気配もなく、縁側でウトウトと時を過ごす。
 打ち水は一刻前に済ませてはいたが、すでに干上がったか、店の周囲には淡く陽炎。
 一雨欲しいな。
 そんな願いをこめて空を見ていると、一面の青を背景に赤と白、黒と白の計三色が移動しているのがうっすらと見えた。
 おそらくは、博麗霊夢と霧雨魔理沙。
 また、どこかで厄介ごとを片付けたり、散らかしたりしているのだろう。まあ、間違いなく彼女らの行き先では大騒動が起こるだろうね。可哀想な訪問先ともども、暑い最中にご苦労様。
 そんな労わりの気持ちで見送っていると、その姿がどんどん大きくなってきていることに気がついた。
 間違いない。二人はこちらに向かっている。
 まずい。僕は一目散に店先へ走りだす。
 店の表に飛び出し、表の掛札を営業中から準備中に裏返そうと手をのばしたその時だった。
「よう、邪魔するぜ香霖」
 霧雨魔理沙が、僕の肩に手をのせていた。なんて速さだ。
 硬直する店主の僕を置き去りに店の中に入って行く。
 慌てて追いかけようとした僕の背に、別の声がかかった。
「霖之助さん、そのまま扉開けていてね」
 振り向くとそこにいたのは博麗神社の巫女、博麗霊夢。
「その格好は?」
「あら、この服は夏に最適なのよ。霖之助さんも着てみたら?」
「いや、服装のことではなくて……」
 試着した自分のおぞましい姿を脳裏から追い払う。僕が聞きたかったのは霊夢の巫女衣装ではなく、彼女が両手に抱えた機械のことだ。平べったい箱型で、四角い口が二つ見える。機械の下部にはボタンが多くあり、三角や丸や四角といったいくつかの模様が刻まれていた。
 とはいえ、自分の能力である程度のことはわかる。
 その機械の用途はビデオテープを再生したり、編集するためのもの。
 編集? なんでそんなものを霊夢はここに運びこもうとしているのだろう。
「みつけたぜ、霊夢」
 店の奥から魔理沙の声。
 意気揚々と、倉庫から魔理沙が持ち出してきたのは遠くの物事を映し出せる箱、テレビジョンだった。
「相変わらず手が早くて助かるわ。後、必要なものは魔理沙の家に置いてある河童の発電機だけね」
「ちょ、ちょっと待て。何をしようとしているんだ」
 二人だけで話を進める様子に僕は問いただす。どんな答えが返ってくるのか怖いが、放置するわけにもいかない。
 僕の言葉に、意外にも霊夢が戸惑いの表情をつくった。
「魔理沙、事情を話してなかったの?」
「いや、私と香霖は以心伝心の間柄だからすでに読み取ってくれたいたかと思っていたが」
 残念ながら、君が弾幕はパワーだぜといい始めた頃から、いまひとつわからなくなってきている。
「それじゃあ、霖之助さんが悪いのね」
 どうしてそうなる。
 魔理沙はよっこらせとテレビジョンを床に置き、肩から下げたいつぞやのカバンをその上に置いた。カバンには何かを詰め込んでいるようで、ごとりと重い音が店に響く。
「この前の宴会で、ビデオを試し撮りしてみたんだが」
 カバンから次々とテープを取り出し並べて行く。一つ一つにラベルが貼られ、よく見ると「紅魔館」「永遠亭」「守矢神社」などと、見覚えのある筆跡でいくつか書き込まれている。
「皆、自分たちも撮ってみたいと言い出し始めてな。で、どうせなら1本ずつ順番に撮影してみよう。で、さらにどうせなら大勢に見せるため里で公開してみようってな具合に話が広がったのさ。幻想郷は暇人ばかりだぜ」
 博麗神社に集う面子を思い浮かべる。いずれも暇つぶしには目がない連中だ。彼女らにこの目新しい機械がどれだけ魅力的に映ったか想像に難くない。
「相変わらず、もの好きの集まりだね」
「私は違うわよ。里で公開するというから、正しい神社の姿とありがたみを伝えようとしただけ」
 霊夢が僕たちの会話に抗議を挟み込むが、どんな内容やら。
「そして本日、撮影はめでたくクランクアップを迎えたというわけだぜ」
 クランクアップという謎の言葉とともに4本のテープを並べ終えた魔理沙。おそらく、撮影に関する用語なのだろう。さっきのビデオテープに守矢神社との文字があったことからも、守矢と和解して外の知識を色々と得たのかも知れない。
「そうかい。おめでとう」
 魔理沙の言葉の意味はわからないが、めでたくという言葉には祝福を返すのが大人の対応というものだろう。
「どういたしまして」
 その返礼は霊夢からだった。彼女は僕の脇を抜けて魔理沙の元へ。テレビジョンに接するように、持ってきた編集機材を置く。
 テレビジョンとビデオテープと編集機材。意味ありげに並べられた機械の数々だが、二人の意図が読み取れない。
 僕の問いかけを含んだ視線に、勘のいい霊夢が気がついて説明を引き継ぐ。
「だけど、そのまま全員分の映像を見ると何時間もかかりそうなのよ。早苗はそういう場合、編集が必要だと言うの。不要なところを切ったりつないだりして、1本のテープにまとめてくれたら、皆で見ても飽きないでしょう、と。で、これが借りてきたそのための機械」
 いやいや、肝心なところを教えてもらっていない。僕が聞きたいのは、なぜそれが我が家にあるのかという一点だけだ。
「霖之助さんがテープを編集するためよ」
「なるほど、僕が編集するためにか。その驚愕の新事実に、拒否という選択肢はあるかい?」
「ないぜ」
 無慈悲な魔理沙の即答。
「ごめんね、霖之助さん。父親のものだったらしくて、早苗も使い方がわからないの。それに、やっぱり機械いじりは男の人が向いているかもと言うのよ。私たちの知る限り、男の人で時間の有り余った香霖堂の経営者は霖之助さんだけなの」
 候補者選定の過程でものすごいフィルターが入った。早苗という人物の「向いているかも」という憶測を論拠にした割に、恐ろしい精度の絞込みだ。
「僕だって使い方はわからない。そのことは君たちも知っているだろう」
「心配するな、準備は万端だぜ」
 力強く断言する魔理沙のカバンから取り出されたのは、分厚い紙の束。
 この前、三日かけて読み終えた本よりもずっしりとした重量を感じる。
「何でも、こいつはトリセツという一読すればこの機械のありとあらゆることを理解できるという魔法の書だ。理解できなけば『ゆーざー』の理解力に問題があるらしい」
 取扱説明書。商品の使い方や注意事項を明記してトラブルを免れることを目的とした文書。僕の能力で察するに、魔理沙の言う魔法の効果など何一つない。
 ないよりはマシと結論づけた取扱説明書を受けとって、僕はそれでも最後の抵抗を試みる。
「だけど、うちの設備では動かすことはできないよ」
「河童の持つ発電機というものを使えばいいみたいだぜ。今、持ってくるから待ってな」
 それは、実物を見るのが楽しみでもあるが……河童がよく人間である霊夢や魔理沙にそんな大変なものを貸してくれたものだ。
 もしかしたら、霊夢が本当に山の妖怪たちと誼を結んだのかもしれない。
「ああ、それと取り扱いには気をつけてね。河童の発電機はすごい貴重品らしくて、河城にとりとその一族郎党を力の限り追い詰めた上で、理を説き、天命を伝え、懇切丁寧にお願いした上でようやく貸してもらえたものだから。壊したら全面戦争になるかもしれないわ」
 我が家に紛争の火種を持ち込もうというのか。
「香霖の尻子玉で落とし前をつければ大丈夫だぜ」
 気楽な台詞を残して立ち去ろうという魔理沙と霊夢。何が大丈夫なものか。
 傍若無人な少女たちの背中に、無駄と知りつつも愚痴を投げかけずにはいられない。
「それで、僕は今回もただ働きかい?」
 今のは失言だったかもしれない。振り向いた魔理沙の表情は満面の笑みだった。
 こいつ、何をしでかすつもりだ。
「心配するな、香霖。皆には『スポンサー森近霖之助(花嫁募集中)』と紹介してやるから」
「よしてくれ」
 それでは、単なるさらし者じゃないか。大体、花嫁なんぞ募集した覚えはない。博麗神社に集う魑魅魍魎の少女たちはそれぞれの美を咲かせる絢爛の花だが、身内にいれば気苦労の発生源でしかないだろう。
「喜べ、封切りは里で大々的に開催する予定だ。よかったな、香霖。よりどりみどりだぜ」
 余計なお世話だよ。
 うんざりだという感情をこめた僕のため息を、魔理沙はどう解釈したものか親指を立てて僕に向けてくる。
「わかってるって、香霖。年齢制限も忘れないぜ。12歳から13歳までだったかな」
「霖之助さん…」
 とんでもない濡れ衣を着せようとする魔理沙と、すでにそれが事実だといわんばかりに眉をひそめる霊夢。
 冗談ではない。
「僕にはそんな気はないよ」
 こういう根拠のない中傷には、毅然とした態度で応じよう。独り身でこんな商売をしていると憶測であらぬ噂を立てられることが今までにも幾度かあった。大抵のケースでは、堂々としていれば事実によらぬ憶測など雲集霧散。忘れ去られるのみだ。
 だが、魔理沙は獲物を見つけた猫のように、うっすとら目を細めて微笑んでいた。
「そうかなー。私が7歳の時に『こーりんのお嫁さんになるー』といったら、『君が五年後も覚えていたらね』と言っていたじゃないか。12の頃に思い出していたら、危うくお嫁さんにされていたところだったぜ」
 記憶にありありと蘇る、子供らしい無邪気な言葉を適当にあしらったときの台詞。それがこんな疑惑につながるとは。人の気持ちが様変わりするまで大体五年という僕の曖昧な経験則は、今現在、とてつもない代償を僕に突きつけた。
「確定ね」
 具体的には、冷たい目で僕から一歩距離をとるこの巫女の態度。
「断じて、違う!」
 茫然自失から我に返って叫んではみるものの後の祭り。
 すでに彼女らの姿は、紺碧の空にあった。



 二畳ほどの大きさの発電機が先ほどから低く唸りを上げている。その駆動音ははっきりいって耳障りだが、音が続いているうちは僕の尻子玉も安泰。そう思えば、いつか愛着も湧くだろう。
 机の上には全部読むことすら挫折した説明書が一冊。試行錯誤の結果、使えそうな場面だけをダビングして、1本のテープにまとめることぐらいならなんとかできそうだ。
 僕の前には、その素材となるビデオテープが4本。
 それぞれ「1 博麗神社」「2 守矢神社」「3 紅魔館」「4 永遠亭」とラベルが振られている。
 やはり若い番号から見ていくべきだろうか。
「1 博麗神社」と最も若い番号の書いてあるテープを手に取った。
 博麗霊夢は神社の真の姿を伝えると言っていたが、僕の知る真の姿は妖怪と人間たちの宴会場という事実ぐらいだ。
 それ以外になんかあったけ?
 このビデオは、きっとそんな僕の疑問の答えになってくれるだろう。
 では、投入。



テープ1 博麗神社

「きちんと撮れているの、魔理沙?」
 再生するなり、霊夢の声が耳に飛び込んできた。
 画面に画が浮き上がり、カメラを疑わしげにのぞきこむ霊夢の映像を結ぶ。
「ばっちりだぜ」
 カメラマンは魔理沙らしい。魔理沙が何か言うたびに、その振動でわずかに景色が揺れる。
 そこは、初夏の季節を感じる博麗神社。光を透かした鮮やかな葉桜の緑と、拝殿へ続く鳥居の朱。
 色鮮やかな境内に、涼しげな霊夢の姿がよく似合う。
「それじゃあ、はじめるわね」
 こほん。霊夢は、小さく咳払い。

「皆さん、こんにちは。博麗霊夢です」
 こいつはすごい。満面の愛想笑いだ。
 恐らく里の人間を念頭においているのだろう。あふれんばかりの笑顔を浮かべる霊夢は、それなりに絵にはなっていた。
 閑静な神社に瑞々しい紅をもたらす彼女の存在は、新緑の野で可憐な淡いピンクを咲かせる撫子の花を思わせる。
「本日は、皆さんにお伝えしたいことがあります」
 興味を引く台詞を残し、拝殿へと向かってゆく霊夢。カメラがその後ろ姿を追って行く。
 霊夢は拝殿の正面、奉納と書かれている自慢の賽銭箱の前で立ち止まり、向き直った。
「今回は特別に、お賽銭の重要性について皆さんにお伝えします」
 なぜ、いきなりお賽銭。
 いや、確かに君にとって重大事だろうけど。霊夢が来店の際、世間話代わりに「神社はどうだい?」と尋ねても、帰ってくる返事はいつも同じ。「誰も賽銭を入れてくれないの」とこぼすのみだ。
 だいぶ前に魔理沙から「危険が迫ってきたら博麗神社の賽銭箱に隠れろ。半世紀、小銭一枚の侵入も許していない神聖不可侵の領域だぜ」と、ありがたい忠告を受けたことがある。本人が聞いたら怒り狂いそうな話だが。
 画面の中の不憫な巫女は、カメラ目線のまま静かに語り始めた。
「皆さん。私はお金自体を求めているわけではありません。私が必要としているのは、神様を敬う貴方の心です。お賽銭はあくまでもそれに付随する副産物であり、いくらでも構いません」
 もっともらしい。いや、話の内容自体は真実の欠片ぐらいは十分に含んでいる。
 ただ、僕は覚えていた。いつぞやの世間話で、霊夢は「奉納の文字を消して『貴重品預かり』とかに書き換えたら、誰か間違って金目のものを入れないかしら」と、てゐレベルの発想を口にしたことを。
 しかし、霊夢の発言に疑問が芽生えるのは、おそらく普段から付き合いのある者だけだろう。霊夢の語り口は落ち着き払い、諭すように柔らかい。凛とした佇まいは、神の声を伝える巫女の立ち振る舞い。日頃、遠巻きに眺めるばかりの里の人にとっては神々しくも見えるかもしれない。
「お賽銭を通じた信仰は、私に力を授けます」
 霊夢の語り口が変わる。言葉に魂を宿らせるように、力強く厳かに。居住まいを正し、真摯な眼差しをカメラ越しにこちらに投げかけていた。
 一息呼吸を入れて、霊夢は自らの胸に手をあてる。
「信仰が集まれば、それだけ私に人を守る力が宿るのです」
 見る者に訴えかけるようぎゅっと拳を握りんだ。年若い少女の真剣な瞳は、理屈ではなく心情に迫ってくる。君、信仰に関係なく強いじゃないかというつっこみなど、言えるわけがない。
「博麗の巫女はあらゆる異変から皆を救います。皆さんが納める賽銭は、貴方たち自身を助けるご利益へと繋がるのです。つまり、皆さん……」
 そこで言葉を区切る巫女。
 次に口をついたのは衝撃の台詞だった。

「命が惜しかったら、お賽銭を入れなさい」

 素晴らしい。台無しだ。
 ここまで、せっかく建前を積み重ねてきたのに、肝心なところで脅迫という骨組みが露わになった。そんな有様。
 撮影者の動揺からか、わずかに揺らぐカメラ。その傾きの中に、満足そうに表情を崩す博麗の巫女がいた。
「こんなところね。どう、魔理沙?」
「……ああ。いいんじゃないか、霊夢。でも、問題は神社周辺の妖怪出現率だろ」
 狼狽のあまり、珍しく建設的な意見を口にする魔理沙。相棒の様子に気づいて、霊夢も早く自らの暴走に気づいてほしいものだが。
「心配いらないわ。今回の放映で参拝の機運が盛り上がり、すぐに『参拝のための第一次十字軍』とかが編制されるはずよ」
 駄目だった。
 長年の賽銭箱への怨念が霊夢をおかしくしている。
 魔理沙が激しくツッコミを入れて目を覚ませようかと手をわきわき動かす。やめるんだ、命に関わる判断だぞ。魔理沙もわかっているのだろう。躊躇っている間、放送事故のように霊夢の顔を映し続けるビデオカメラ。
 その霊夢の視線が、不意に上空へ向けられた。
「毎度、文々。新聞です」
 空から天狗の声が降ってきた。
 カメラが霊夢の視線を追い、鳥居の影から降りてくる鴉天狗の少女を捉える。
 開口一番に新聞をばら撒いたらしく、新聞の一部が霊夢の手元へと空を滑り降りた。
「配達のついでに、面白いものがあると聞いて取材にきました。それですか?」
 撮影者に向けてカメラを向ける文。カメラを覗き込んで向き合う二人という、妙な構図になっているのだろう。画面の端で霊夢がくすりと微笑む。
「なんだ、文はまだそんな写真なんて時代遅れを使っているのか。これからは映像の世紀だぜ。幻想郷は燃えているか」
 調子にのっている魔理沙の戯言は置いておくとして、一瞬を切り抜く写真と連続した時間を映しこむビデオ。軸として、面白い対比かもしれない。とはいえ、一枚で物語のすべてを語る絵画もあれば、変わり映えもなくただ暮れるだけの一日もある。優劣を語るべきではなかった。
 それでも、単純にカメラを向け合うこの場ではビデオの持続性が魔理沙に有利に働いたようだ。
 じっと映し出され続けることに、とうとう文が根負けした。
「……そんなに映さないで下さいよ」
 並行を保っていた天秤が大きく振れ始めたように、急に照れだしてあたふたと画面から逃れようとする。
 だが、画面の端から魔理沙の手がのび、文の腕を鷲づかみにした。
 そのまま、舐めるようなカメラワークで文の表情から首筋、胸元から腰、スカートからのびるすらりとした健脚にいたるまで映し出す。
「おやおや、映されるのは苦手か? たまには映される側の気持ちを味わうんだな」
 ああ、今の魔理沙の気持ちがちょっとわかる。
 魔理沙を駆り立てるのは嗜虐心。
 いつもは一方的な取材を押し通す射命丸文を、同じ手段で逆に追い詰める感覚に酔っているのだろう。
 レンズ越しの注視に、頬を赤らめ、身をよじって視界から逃れようとする文。しかし、魔理沙は逃さない。その羞恥の表情にすかさずズームアップ。すでに本能でカメラを使いこなしているが、やっていることは泥酔したエロオヤジの領域だ。文の肩に腕を回して抱え込むと、胸元のリボンあたりをちょいちょいといじりだす。
 そろそろ、魔理沙を止めた方がいいかもしれない。
「おやあ、あややーん。綺麗な肌をしているじゃないか、もっと見せちゃおうかー」
「い、いやあああ!」
 誰か、早く止めてやって!
「神社で何をしているの」
 至極冷静な霊夢の声と共に、カメラ越しの視界がゆれた。
 映像に一瞬の青空が広がり、ゆっくりと後ろに流れて最後に横倒しに石畳を映し出す。画像の端に、転がる陰陽玉と倒れ伏す魔理沙。どうやら、撮影者は昏倒させられたらしい。
 カメラは白い指に拾い上げられ、再び文を映す。
「ごめんなさいね、文」
 霊夢の声だった。魔理沙の謎の負傷により、めでたく撮影者の交代となったらしい。
「今すぐ、野良犬走に噛まれたと思って忘れなさい」
「意味はわかりませんが、記憶から消したいのは確かです」
 セクハラコンビに絡まれながらも、文はようやく落ち着きを取り戻したようだ。
 ほうっと、文の安堵の息が聞こえる。
「それより、文。その新聞だけど」
「あ、何か気になる記事とかありましたか?」
 新聞の話題を出されて、一瞬で華やいだ笑顔を取り戻す文。
 まばゆいばかりの営業用スマイルで、紙面をカメラに向けて大写しにさせる。
「今回の記事、力を入れて書いたんですよ」
 よほど自信があったのか、『河童を襲う謎の略奪者! 〜恐怖に口をつぐむ被害者たち』という一面を見せ付けるが、謎の略奪者は眉一つ動かさない。
「そんな記事なんてどうでもいいわ。ここを見て」
 文の表情の変化を見る限り、おそらくこの日最大のダメージを鴉天狗に叩き込んだ博麗の巫女。そんな様子を察することもなく、新聞の片隅を指差した。枠に囲まれた小スペースには"天狗ノ麦飯"と商品名。広告スペースだった。
「やっぱり、こういうのはいくらか貰えるの?」
「……はい、うちの場合は紙代ぐらいですけど」
 文の返事に、霊夢はしきりに頷いているようだ。新聞の広告面を大写しにしている。
「おみくじに広告枠という手があったわね……霖之助さんとかに声をかけておこうかしら」
 満足したような呟きを残して、唐突に画像と音が途切れた。

 砂あらしに似た白黒の粒子が画面に広がる。どうやら、ここで終わりのようだ。
 僕は内容を振り返る。
 霊夢が語ってくれたことは、清々しい程にお金の話だけだった。
 おみくじに広告って許されるのか?
 いや、そもそも『大凶 あなたの金運は最悪です。ぼったくりに注意』というおみくじの広告面にうちの店の名前があったら印象最悪じゃないか。もし、霊夢がきてもお断りする方向で話を進めなければ。
 次にテープ自体についてだが……
 このまま流すと博麗神社のイメージが致命傷を受けるのではないだろうか。一番インパクトのあった台詞「命が惜しかったらお賽銭を入れなさい」を含めて、それ以降をばっさりカットする必要がある。さもなくば、僕の首から上がばっさりカットされる心配がある。
 手近なメモにその旨を書き残し、続いて取り出す「2 守矢神社」のビデオテープ。
 同じ神社関係だが、これは果たして大丈夫なのか。
 祈るような思いでテープを投入する。



テープ2 守矢神社

 再生のボタンを押した瞬間、画面全域を支配したのは馬鹿でかいカエルの面だった。
「諏訪子様、寄りすぎです」
「あーうー?」
「だから離れなよ、諏訪子」
「あーうー……」
 玉砂利を引きずられる音とともに幼げな声が遠ざかっていく。
 そこは、博麗神社とは趣きの異なる神社の境内だった。諏訪子と呼ばれた少女と、その子をカメラから引き剥がした妙齢の女性が二人映りこんでいる。撮影者と含めると、この神社にいる人物は三人といったところだろう。
 どうやら、さっきのカエルの面は諏訪子という童の帽子だったらしい。帽子の上に鎮座する二つの目玉がぎょろりとカメラ目線。存在感がありすぎる。
「では、はじめますよ」
 一番最初の声が呼びかけると、画面の二人はそろって親指を立てる。
 視界がくるりと回り、画面に映し出したのは一人の少女。画面を覗き込む様子から、撮影者の少女が自分を映しているのがわかる。霊夢と同じような服装。巫女だろうか。
「はじめましての方も多いと思います。私は守矢神社で風の平穏を祈る風祝……巫女のようなものを務めさせていただいております、東風谷早苗と申します」
 髪を一房、横に縛った特徴的な髪型と、もっと特徴的な蛙と蛇を模した髪飾りをつけた少女。生真面目さが透けて見える言葉遣いが初々しい。よく見ると、微笑みは少しぎこちないものだった。
 実に可愛らしく好感が持てる。先ほどの、イヤな意味で神がかった霊夢とはえらい違いだ。
「そして山の神にして山坂と池の権化、八坂神奈子様です」
「はいよ」
 再び反転した画面の向こうで、ゆったりとした紅い衣に荒縄をまとう印象的な服装の女性が片手を振っていた。飄々とした物腰の美人。早苗の様子を面白そうに眺めている。
 大仰な紹介に比べて、応じる神奈子の態度は実にフランクだ。それでも、曲がりなりにも目利きをしてきた僕の目には能力に依らずともわかる。早苗の紹介は間違いなく真実。古物に例えれば、歴史に名を残した一品が漂わせる雰囲気か。八百万の神様がいる幻想郷とはいえ、これほどの存在は稀有ではないだろうか。
「その神奈子様に抱えられいるのが、洩矢諏訪子様。神様、ですよね?」
「神様だよー」
 疑問系の紹介に、両手をぶんぶんと振って抗議する少女。不安になるのもわかる。見た目もそうだが、僕の目利きでは得体の知れなさしか読み取れない。ただならぬものが潜んでいる深淵を覗き込んでいる気分だ。
「この守矢神社ではこちらの二柱の神様を祭っております。まだ幻想郷に来て日も浅く、色々と迷惑をおかけすることもありましたが、何卒よろしくお願いいたしますね。では一端失礼します」
 そこで、画面が暗転。
 次の瞬間、画面が光を取り戻すと少し距離を置いて映し出される早苗の姿。どうやら撮影者が代わったらしい。
「よく撮れているよ、早苗」
 近くに聞こえる神奈子の声。恐れ多くも神様が撮影者。
「神奈子様、よろしくお願いします。それでは、まずは神社の成り立ちから説明いたしますね」
 それからひとしきり続くよどみのないない神社紹介。正直、少し退屈な部分もあったものの、早苗という巫女の堅実な性格を物語るようで、それはそれで微笑ましい。
 そんな具合に撮影を続けながら拝殿まで差し掛かったときだった。
 早苗が賽銭箱のあたりで立ち止まる。
「ここで、ちょっとお話をさせてください」
 まさか、こいつも?
 不吉な予感に背筋を震わす僕だったが、早苗が語り始めたのは別のことだった。
「皆さんは神社ではご利益を願うかと思います。うちで言えば、風の穏やかなること、山の豊穣を願う方によくお越しいただいております。諏訪子様は水の清らかなること、祟りを鎮めることにご利益を授けるでしょう」
 話から察するに、どうやら守矢神社は脅迫をせずとも参拝客がきているらしい。神様が目前にいるだけに、祈りが届きやすい気がするのだろうか。
「ですが、神社には願う、祈る以外にもできることがあります。それは、誓うということです。誓いは、願いと違って神様の助力はありません、自分の力だけが誓いを叶える力です。私たちはただ見守るだけ。貴方の努力を、そのための自制を、目標への真摯さを」
 穏やかさを守りながらも、早苗の口ぶりは熱を帯び始める。
「そして成し遂げた成果は、誰の手も借りていない貴方の純粋な強さです。誰であっても否定や嘲笑をすることができない貴方の心に築き上げた礎です。ですから自分の努力で叶うことは願うのではなく誓いましょう。私たちは、必ず見届けます」
 画面越しに見つめてくる瞳は、少し息苦しいほどに真摯な光を湛えていた。
 彼女の台詞には頷きたいところも多いが、僕にはいささか押し付けるような響きも嗅ぎ取れる。少女の人生経験に比べて言葉だけが立派すぎる違和感。誰かから預かってきた言葉を、そのまま僕らへ投げつけているような。
 気にしない方がいいのだろうが、ありがたがって拝領するには僕たちは少しだけ捻くれ者なのだ。
 早苗という巫女は年齢的に隠しようがない未熟さを、肩肘を張った頑なさで無理に隠さない方がいい。説得力は背伸びすればするほど手が届かなくなるものだ。
 だから、もう少し年月を重ねて気負いが抜ければ、間違いなくよい巫女になるだろうね。
「誓いは、どんな些細なことでもいいんですよ。是非、守矢神社へお越しください」
 ぺこり。深々と頭を下げて、守矢神社の紹介を終える早苗。
 勤めを果たして顔を上げた早苗の表情は、緊張が抜けたほっとするいい笑顔。これからは、その表情を増やしていった方がいいだろう。

「終わったー?」
 早苗が一礼するやいなや、遠くから幼い声。
「終わったよ、諏訪子」
 応じたのは、撮影に徹していた神奈子だった。
 とたとたと駆け寄ってくるのは諏訪子の足音だろうか。
 画面右から早苗に向けて一直線の影が一つ。早苗に横から飛びついた。
「お疲れ様、早苗」
「ありがとうございます、諏訪子様。すごく緊張しましたよ」
 柔和な笑顔を腰に抱きつく諏訪子へ向けつつ、霊夢より幾分大きな胸をなでおろす早苗。いや、似た服装をしているので、つい比較を。
 まあ、比較といえば博麗神社の後に守矢神社を並べていいものか悩んでいる。残酷なコントラストが、予期せぬ比較広告となりかねない。
「それにしても、まさかこいつを自分が使うことになるとはねえ」
 神奈子の声。やはり、神様でもビデオ撮影は始めての経験だったのか。確か、このビデオカメラは守矢神社からもってきたものとのことだから、見知ってはいたようだが。
「魔理沙さんには最初は呆れましたが、いい神社紹介の機会になりました。そう考えると、埃をかぶっているよりも良かった気がしますね」
 人の良いことを。こんな台詞を魔理沙が聞きつけたら、明日には御柱一本残らないぞ。
「それと、先ほどはずいぶんと大げさに言ってしまったのですが、誓いに関して私の言いたいことが伝わりましたでしょうか」
 少し不安げな表情でこぼす弱気。肯定か、それとも慰めか、諏訪子は精一杯背伸びして早苗の頭を無言で撫でる。
 早苗は諏訪子に強張った笑顔を返し、心落ち着かせて拝殿に向き直り二拝二拍手一拝。
 拝殿を向いたまま、独白を続ける。
「思えば、私もここで色々と誓いました。子供の頃は運動会で一位になります、とか」
「あれはすごかったね、迂闊に早苗の前を走っていた三人を最後にごぼう抜き」
 思い出にふける神奈子の声。
「あとは、文化祭の演劇で急に回ってきた主役を無事務めるという誓いもしました」
「早苗を差し置いて主役をやりたがった子が急に寝込んだよね。いきなりだったのに頑張ったね、早苗」
 幼い声にねぎらいをこめて、うんうんと頷く諏訪子。
「……え?」
 ほほえましい家族のような雰囲気だったが、早苗の呟きをきっかけにして違和感が生まれる。
 ぎぎぎと、音が出そうなぎこちなさで振り返った早苗。
「なぜ、そこまで具体的にご存知なのかわからないのですが……つかぬことをお伺いしてよろしいですか」
「な、なんだい?」
 人を欺くことが苦手な神様というのは、ある意味信頼できるかもしれない。神奈子の返事は強張ったものだった。
「あの運動会の時、前を走っていた三人がまったく前に進めなくなったと言っていました。まるで、風の壁に阻まれているように、と」
「……不思議だねえ」
「あと、諏訪子様。その寝込んだ子ですが、うわ言で『蛙が、化け物蛙が』と繰り返していたそうです」
「祟りかなあ」
 見た目とは裏腹に諏訪子の方がケロっと応じる。
 しかし、二人の態度は早苗の懸念を強くしただけ。
 次に浮かんだ早苗の笑顔は、どこか博麗を巫女を思い出させるものだった。

「二人とも、少々お話を……いえ、怒ってませんから。でも神奈子様、ちょっとカメラ止めろ」

 画面がぶれて、暗転。
 以上が、守矢神社からの映像の全容だ。途中までは満点だっただけに残念なエンディングといえる。
 まあ後半のやり取りをカットすれば公開しても大丈夫だろう。
 早苗の名誉を守る方向で編集とメモ帳にペンを走らせ、ひとまずの閲覧を終える。
 次は……「3 紅魔館」か。
 怪奇に満ちた吸血鬼の館。実に興味を引く題材だ。
 僕は三本目の鑑賞を始める。


テープ3 紅魔館

 画面がちらついてようやく映像を結ぶと、紅魔館のメイド長こと十六夜咲夜が大写しになっていた。
 屋敷の中のため季節感が乏しい光景だが、紅魔館では珍しく開け放たれた窓と、南風を背に受けて穏やかにたなびくレースのカーテン。よく磨かれた床が眩い日差しを受けて照り返す。夏の最中だった。咲夜のいつもは完璧に着こなしているメイド服も、今はリボンを緩め胸元を少し開けている。袖も腕まで捲くりあげ、少しでも涼を取ろうとしているようだ。
「あ、映りましたよ、咲夜さん!」
 その嬉しげな声には聞き覚えがある。以前、上得意のレミリアお嬢様に頼まれて紅茶の葉を納品に行った際、門の前でこの声と世間話を交わした。彼女の名前は、そう……
「あら、案外早かったわね。美鈴」
 そう、紅美鈴。咲夜の視線がカメラに向けられていることから察するに、撮影者は美鈴らしかった。
 咲夜はしばらくカメラを覗き込んでいたが、やがてため息。
「やっぱり、そのレンズ越しに魂を抜かれている気がするのよね」
「大丈夫ですよ、私は咲夜さんの魂を吸い取ったりしていません」
 まじめな口ぶりで、天然を交錯させる二人。突っ込み役がいないことに若干の不安を覚える。
「ところで咲夜さん、撮影係を仰せつかっちゃいましたけど何を撮ればいいんでしょう」
 そういうことは撮影前に相談してほしい。
「そうねえ」
 咲夜はそんな美鈴に慣れきっているのか、特に怒ったりもせず考え込む。今、気がついたが、咲夜は以前うちにお嬢様のお供で来店したときよりも、かなりくだけた感じだ。紅美鈴と二人だからだろうか。よほど気心の知れた仲なのだろう。
「警備担当としては、内部の構造をありのまま見せたくはないのよね。撮影箇所は数箇所にしましょう。まずは当然のことながら館の主、お嬢様を。次に大図書館あたりかしら。あなたの手入れした花畑もいいわね。後は妹様の機嫌さえよければお嬢様とご一緒の様子を撮りたいのだけど……」
 切った言葉の続きは、きっと「それは難しいかしら」だろう。紅魔館のフランドール・スカーレットといえば知る人ぞ知る存在だ。
 そんな咲夜の様子を、美鈴は健気にも励まそうとする。
「大丈夫ですよ、咲夜さん。二時間前、フラン様が懐いている魔理沙が館に侵入するのを見ましたから、きっと機嫌はよくなっています」
「そう、見てたの。あなたのお仕事はなあに?」
 美鈴の心遣いに、咲夜は笑顔を返す。ついでに拳を一つ。
「あう」
 画面が揺れて、美鈴の情けない悲鳴がもれた。
「じゃあ、まずはお嬢様のところね」
「はーい」
 何事もなかったように話を進める咲夜と、涙声で返事を返す中国だった。

 黒檀の扉は異様な威圧感をもって館の奥に鎮座していた。レミリア・スカーレット。扉のプレートが指し示す文字は、この紅魔館の主の名。永遠に幼い紅い月という異名は、幻想郷の畏怖を一身に集めるこの吸血鬼のものだった。
「ノックはしなくていいんですか」
 かろうじて音声を拾えた美鈴のひそひそ声。少し怖気づいた響きがある。
 応じる咲夜の声も押し殺した囁き。こちらの声には信頼に裏付けられた余裕があった。
「お嬢様は運命を操る方。必然に支配されている私たちの行動を、お嬢様が気づかないと思って?」
 レミリアの運命を操る能力。抽象的なために伝わりにくい能力だが、実際には逃れようのない恐るべき能力だ。身近にいる咲夜と美鈴の運命など、すでに掌握されているも同然。運命交響曲の出だしは運命の扉を開かんとするノックから始まるが、あらかじめ訪れる運命を知る者にノックなどは無用のことだろう。
 咲夜は建付けのよい黒檀の扉を、音もなく押し開けた。
「お嬢様、失礼し……」
 恭しい物腰のまま、咲夜が固まっていた。
 部屋の中央には水を張った金タライ。その金タライに、両足を入れた女の子が一人。暑さに自制心を溶かされたのか、太ももまでスカートをめくりあげ、椅子の背もたれにだらけきった全身を預けている。口元で、棒アイスがもごもごと揺れていた。
 団扇代わりの羽が、気まずげにパタパタとはためく。
 紅魔館の主、永遠に幼き紅い月、レミリア・スカーレットその人だった。
 こちらに向けられた気だるげな紅い瞳が、カメラを見つけて大きく見開く。
「え? な……ちょ」
 レミリアの言葉は最後まで聞こえない。
 咲夜によって、扉が瞬時に閉ざされていたからだ。
 目の前には再び重々しい黒檀の扉。
「ど、どうします?」
 美鈴の取り乱した問いかけに、咲夜はしばらく沈黙を守る。
 かなりの間をとって、ようやく押し殺した声で答えた。

「お嬢様は運命を操る方。必然に支配されている私たちの行動を、お嬢様が気づかないと思って?」
 つい最近聞いた台詞だ。
 そもそも、美鈴の質問への返答ではない。
 美鈴が言葉の意味を問いかけるよりも早く、咲夜は行動へ移った。
 黒檀の扉を、再度音もなく押し開ける。
「お嬢様、失礼します」
「待っていたわ、二人とも」
 先ほどはなかったテーブルが一卓。そのテーブル越しに、向かいあってレミリアが座っていた。両肘をついて手を組み、不敵な微笑みを浮かべている。金タライなど、どこにもない。スカートもきちんと下ろして身なりに乱れたところは何一つなかった。
 咲夜はくるりとカメラに向き直り、口元に手をあてて驚嘆の表情。
「やはり、私たちが訪れることを分かっていらしたのですね……グラスが、その証拠です」
 言われて気がついた。テーブルの上にはグラスが三つ。よく冷えた果実のジュースが満たされていた。
「分かっていたというのは、少し違うわね。貴方たちは、今この場にくる必然を私に与えられていたのよ」
「さすがお嬢様。運命の深淵を、完全に支配しておられるとは……」
 うっとりとした言葉を、お嬢様ではなくカメラへと向ける咲夜。
「ええ、咲夜。すべての運命は私の手のひらにあるわ」
 主もまた、カメラに向けて可愛らしい両方のおててを差し出すのだった。
  

 こうして、劇団「紅魔館」の第一回公演は大好評のうちに幕を閉じた。
 ……いや、まあ、その。
 うん、レミリアの能力は強大かつ広範囲に及ぶだけに普段から使いっぱなしというわけにもいかないのだろう。
 考えてみれば、能力の暴走しがちな妹が身近にいて、能力を易々と使う気になれないのかもしれない。
 普段のレミリアは思慮深く、実力に裏打ちされた尊大さを併せ持つ。今のは霊夢の「力の抜き方」が伝染ってしまっただけなのだ。
 展開に置き去りにされた沈黙の観客こと、美鈴のカメラ越しに主従コントを見守りつつ、テイク2だけ使用とメモを残そう。

 主の撮影を終え、場面は薄暗い本棚の林に切り替わってゆく。
 咲夜の姿はすでになく、ここから美鈴が紅魔館の風景を映していくらしい。
 それにしても、いつ見てもこの図書館は素晴らしい。古今東西の知識の殿堂。魔理沙が心惹かれるのも理解できる。
 個人的に感心しているは本の分類法だ。0から9までの数字の組み合わせだけでこの膨大な書籍群をジャンル別に管理している。
 うちの混沌とした倉庫もいつか整理したいものだ。このままでは好き放題に巫女や普通の魔法使いの補給拠点にされてしまう。
 途中、本を両手に抱えた司書の小悪魔が本棚の影から現れた。
「珍しいですね、美鈴さん。何か本でもお探しですか?」
「いえ、本ではなくて……パチュリー様はどちらでお過ごしか、わかりますか?」
 美鈴の言葉に、小悪魔は本棚の回廊の最深部へ視線を向ける。
「奥の私室ですよ。でも、残念です。ちょうどお勧めの本がありましたのに」
「うーん、本ですか。私にはちょっと向いてないかも」
 控えめな否定を返す美鈴に、小悪魔はほんの少し肩を落とした。
「でも、いい本なんですよ。『雑草にも名前がある』というタイトルで……」
「予約入れておいてください」
 即答に満足げな司書を残して、カメラは本棚の回廊を抜けてゆく。

 図書館隅の一角。カメラは本棚の森に突如出現した扉を映し出した。
 扉の隙間から、こうこうと明かりが漏れる。扉の向こうは日光を遮断した図書館より、格段に明るくなっているのだろう。
「よろしいですか、パチュリー様」
「……どうぞ」
 美鈴の呼びかけと、返ってきた消え入りそうな声から、図書館の主の私室だとわかった。
 開かれた扉の向こうの眩さに慣れると、寝台に腰をかけたパチュリーがいつものように本を読んでいた。重厚な装丁が施された本を、手で支えきれないのかベッドに置き、のぞきこむ窮屈な姿勢での読書。魔法によるものか照明は強い光を放つ。寝巻きに似たパチュリーの衣服は、光を受けて細い腰のくびれをくっきり浮き上がらせていた。
 思わず見とれる艶やかさだったが、そんな情緒は恐らく欠片も持ち合わせていない紅魔館の門番の暢気な呼びかけが響いた。
「こんにちは。今、咲夜さんに頼まれて紅魔館の名所を撮影しているんですが、こちらで撮影しても構いませんか?」
「もう映しているじゃないの」
 非難の響きはまったく存在しない、パチュリーのただ冷静な事実の指摘だった。
「すいません、スイッチをつけたものの消し方わからなくて。あ、もちろん駄目だったら映した内容は消してもらいますよ。安心してください」
「そう。私は構わないけど、貴方はどうかしら」
 パチュリーの視線は、美鈴が気づかなかった客人に向けられていた。
 その部屋の奥まった空間で、図書の一山の向こうから声が返る。
「別に構わないわ」
 そっけない了承を返したのは、アリス・マーガトロイド。パチュリーと同じく魔法使いで、魔理沙と同じく魔法の森在住だ。
「あ、お騒がせしてすいません」
「大丈夫よ、どっかの白黒に比べたらお騒がせ具合もだいぶマシだし」
 予想外の訪問者に恐縮する美鈴に、アリスは冗談めいた言葉を真顔で投げかけていた。本気か冗談か、どちらにもとれて反応に困る。
「あははは」
 美鈴の乾いた笑いも仕方のないことだろう。
 アリスのフォローもなく、黙々とページをめくる紙擦れの音だけが後に続いた。
「美鈴、私は知識を求める者には誰に対しても図書館開放しているわ。お金を貸すことを拒んでもいいけど、本を貸すことを拒んではいけないという格言もあることだしね。ただ、黙って持っていく輩は別だけど」
 パチュリーには、霧雨魔理沙がいつもご迷惑をおかけしていることをお詫びしたくなる。もちろん、うちとは無関係なので請求書は回さないでほしい。
「そんなわけだから、目ぼしいのがあれば借りていってもいいのよ、アリス」
 ぶっきらぼうなパチュリーの呼びかけには、好意的な余韻が残っていた。
「ありがとう、パチュリー。そうしたいところだけど、探していた創成魔術の大系で、一番読みたかった数冊が抜けているのよね」
「抜けている? なら、魔理沙の家にあるかもしれないわね」
 パチュリーの言葉に、アリスは長いため息をもらす。
 忌々しげな表情で肩をすくめた。
「直接、魔理沙のところへ取りに行くしかないのかしら。そうだ、パチュリー。他にも何冊か盗まれているのでしょう? 他に貴方の本があったら一緒に持ってきてあげるわ」
 気を利かせたアリスの言葉への回答に、パチュリーはわずかな沈黙を挟んだ。
「……そこまでしてもらうのも悪いから、自分で行くわ。直接文句も言いたいしね。魔理沙の家って、どんな様子?」
「ひどい有様。喘息もちのあなたにお勧めはできないかも」
 うっすらとだが、わかった。今の穏やかな世間話で交差したのは、魔理沙の家に行きたいパチュリーと、行かせたくないアリスの探りあい。言葉の表面を剥ぎ取れば、高度なせめぎ合いが展開されつつあるのだ。
 早々に退散したい空気だが……
「あまりお屋敷でアリスさんをお見かけしてませんでしたが、やっぱり魔法使い同士、お二人は仲がよろしかったんですね」
 撮影者はまったく空気を察していない。
 パチュリーは美鈴のお気楽な一言に、ちらりとアリスの横顔に視線を走らせた。
「ええ、魔理沙と違って思慮深いところが嫌いじゃないわ」
 その言葉を受けて、アリスも頷く。
「私も、魔理沙と違って慎み深いから、居心地がいいのよね」
 なぜ、二人とも魔理沙を引き合いに出しているか気づけ美鈴。なのに、この撮影者は僕の心からの忠告をまるで聞こうともしない。
「ええと、二人とも魔理沙さんが嫌いなんですか?」
「大嫌いよ」
「あら、ここでも気が合うわね、パチュリー」
 間髪入れないパチュリーの返事と、合わせるアリス。
「はー。二人とも、よほどなんですね。私は嫌いじゃないですけど、侵入される度に咲夜さんに怒られるのがちょっと困ります」
「あなたも苦労させられているのね」
 美鈴の素直な感想に、表情に乏しかったパチュリーが、はじめて可笑しそうに顔を綻ばす。美鈴の暢気さが生み出した、つかの間の清涼剤。
 けれど、次のアリスの言葉で清涼剤は使用期限切れを迎えた。
「そういえば、魔理沙に家に来いと言われていたわ」
 パチュリーの口が、戸惑いか羨望か三角を形づくる。一瞬のことだった。
「あら、本を見せてもらうのに、ちょうどよかったじゃないの」
 本に視線を落として、当たり障りのない相槌を返すパチュリー。
「イヤよ。新しい魔法を受けてみてくれとか、どうせ無理ばっかり頼んでくるに決まってるし。すっぽかしてやろうかしら」
「それで逃げきれるのは羨ましいわ。私はいつでも魔理沙が押しかけて本当に迷惑しているもの」
 友達同士、共通の知人の悪口を言うような雰囲気だった。
 ひとしきり魔理沙への不満を口にした二人は、顔を見合わせてくすりと笑いあう。
「ほんと、魔理沙には困ったものね」
 双方、寸分も違わない呼吸で、同じ愚痴。
「あは。お二人とも、言いすぎですよー」
 陽気に笑い飛ばす美鈴だが、君はわかっていない。
 切り結んでいた剣豪同士が、とうとう抜き身の刀身を押し込みあう鍔迫り合いを始めた。そんな状況だよ。
 今、美鈴コントローラーというものが手元にあるなら、後退のレバーを全力で傾けたいところだ。
 誰か、この空気を変える奴はいないものか……

「よう、パチュリー、またきたぜ! お、アリスもいるな、珍しい」
 考えられる中で、もっとも最悪の奴がきた。
「あ……門番は、サボリか?」
「ち、違いますよ!」
「……珍しくて悪かったわね、魔理沙」
 慌てて否定する美鈴を他所に、魔理沙とアリスの軽い憎まれ口の応酬。パチュリーは本からピクリと視線だけを上げ、すぐに何事もなかったように本に視線を戻す。そのまま、魔理沙の顔も見ずに話しかけた。
「魔理沙、妹様に捕まっていたと思ったのだけど、お相手をしなくていいの? おかげで落ち着いて本を読めていたのに」
「逃げてきたぜ。あいつとまともに遊んでいたら体力がもたない」
「残念、魔理沙の保母さん姿を見たかったわ」
 意地悪く混ぜ返すアリス。
「悪い趣味だぜ」
 魔理沙の言葉を受けて、くすくすと控えめに笑い合うアリスとパチュリー。
「なんだよ、二人して」
 魔理沙はむくれたように椅子の一つに座り込んだ。
 その時だった。
「まりさー」
 聞き慣れない声が響く。
 振り向こうとする白黒の背中に飛び込んできたのは、目の覚めるような深紅、異形の翼。フランドールだった。
 これは、まずくないか?
 想像上の最悪から、現実はさらに斜め上へ飛び立とうとしている。
「夏の盛りにまとわりつくな、暑い!」
「じゃあ、あそぼう」
 振り落とされないよう、魔理沙にしがみつくこともフランにとっては遊びの一つか。けらけらと笑いながらじゃれついていた。
「次はおままごとしようかな。私が魔理沙のお嫁さんね」
 ずいぶんと子供っぽい遊びを要求するフラン。
 外界と隔絶されていたというし、精神も見た目のとおり幼く無邪気なのだろうか。
「パチュリーたちも一緒にしよ?」
 首から肩へ、腕を絡ませたままの可愛らしい誘いの声。幼い少女の仕草は、実に微笑ましい。
 だが。
 魔理沙からは死角になっていても、こちらからは見える。さめざめと紅く凍えた吸血鬼の瞳が二人へ向けられていた。
「おいおい、フラン。そんなガキの遊びに誘ったところで、こいつらはな……」
 魔理沙の言葉を遮るようにパチュリーは音を立てて本を閉じ、真正面からフランの視線を受け止める。
「いいじゃないの。付き合ってあげるわよ、魔理沙」
「ええ、私たちも一緒に遊んであげるから、ね」
 アリスもまた書棚に本を戻していた。
 魔理沙は諦めの嘆息を吐き出す。
「どういう風の吹き回しだよ。じゃあ、お前らはどんな配役を希望するんだ」
「奥さんは私だからね」
 唇の端に狂気をにじませて、薄く微笑むフラン。口調だけがあくまでも幼いままだった。
 禁じられた遊びに誘われる二人にも、微笑みが浮かぶ。
 淡々と、アリスは希望の配役を口にした。
「なら、私は通い妻で」
 パチュリーも続く。
「それなら、私は現地妻で」

 よし、逃げろ美鈴。

「わ、私、次の撮影に行かないと」
 きしむ三人の空気に、美鈴もようやく気づいたのか。
 机に膝をぶつけただろう鈍い音とともに立ち上がるなり、恋の迷路から出口を目指して一直線。
「おー、紅魔館はお前が撮影係か。がんばれよー」
 暢気な魔理沙の激励を背に、幻想郷史上最も凄惨なおままごとが繰り広げられるであろうその一室を後にした。


「心臓が止められそうな空間でした」
 美鈴の声が、僕の気持ちを代弁する。
「お詫びに、とっておきの場所を紹介します」
 ここは小高い丘のようだ。眼下には一面に広がる霧の湖。涼しげな湖からの風に、草むらはさらさらと波打つ。生い茂る緑は色濃く、背の高い木々は木漏れ日を美鈴へ落としていた。
 湖には強い日差しを受けて、淡く靄がたつ。かすみがかった視界に、気ままに現れては、ふいと消える妖精たち。時刻は昼下がり。まだ遊び足りないとばかり戯れていた。
 のどかで、開放感のある風景。心が洗われるようだ。
「いい眺めですよね。ここは、咲夜さんもこないし、本当におちつける場所なんです」
 『さぼりスポット』というわけか。まあ、誰にもそういう場所はある。ただ一つ気になることがあるとしたら、公表したらもうそこは『さばれないスポット』に変わるということだ。
 美鈴は気づいていないのか、カメラを草むらにおいて、大きくあくび。
「風が心地よくて、気が緩みますよ……」
 語尾が少し怪しくなってきた。間延びした響き。
「セミの声も遠くなって……うっとり……ねむく……」
 言葉が不明瞭になってきたと思ったら、それっきり沈黙する美鈴。
 何事かと画面を注視するが、カメラは丘から草むらと湖を見下ろすのみ。画面の端に、無防備に投げ出される美鈴の足があった。どうやら、解説中に自分の言葉に従い、眠ってしまったらしい。
 あとはこのままテープが切れるのを待つばかりか。
 流れるセミの声をBGMに、僕は手元の本に視線を落とす。

「寝ているの?」
「寝ているね」
「うん、ぐっすり」
 セミの声に混ざった何者かの声に顔をあげる。
 画面に変化があった。
 妖精の湖面の彼方に遊ぶ妖精の一団から抜け出してきたのか、闖入者がカメラの周囲を漂っている。
 全部で三匹。
 二つくくりの髪をリボンで飾った妖精と、くるくる巻き毛の妖精と、艶のある長い黒髪に大きなリボンをつけた妖精。蜻蛉のような薄く透き通った羽と、小さな体が共通している。
 妖精は好奇心旺盛だが、興味のあるもの以外には注意散漫。今はこのカメラにも気づかず、眠りこけている美鈴に興味津々のご様子だ。無思慮で悪戯好きという妖精の特徴から、何か仕出かしそうな気配を感じる。
「なんだか、妖怪なのにあんまり怖そうじゃないかも。ルナ、つついてみて」
「なんで私なのよ、サニー。まったく……スターの見た感じでは、熟睡してそう?」
「ええ、熟睡していると思うわ。ルナがつっついてくれれば、もっときちんとわかりそう」
「だから、なんで私なのよ」
 妖精の会話は、本当にとりとめがない。
 やいやいと騒がしくなってきたのだから美鈴も目覚めればいいものの、投げ出された足に反応の様子はなかった。
 ひとしきり会話をかわした後、三匹の中でリーダーらしきサニーという妖精が「あ」と小さく声をもらし、美鈴を指さす。
「思い出した。この妖怪、紅魔館の門番よ」
「え、あの怖いメイド長のいるところ?」
 ルナと呼ばれた妖精がうへーと、舌を出す。通称、悪魔の棲む家でもっとも恐れられているのが人間というのも興味深い。
「悪戯はやめておこうかしら。この前、あそこに別荘をつくろうとしたら捕まって散々だったじゃない」
 サニーがしみじみとため息を吐き出す。お気楽な妖精にトラウマを残すとは何があったのか。
 一方、スターと呼ばれた黒髪の妖精は小首を傾げた。
「そうかしら? メイド長さんっていい人だと思うわ。追い出される前に『皆で食べなさい』って、お菓子をもらえたし」
「え、私、食べてないよ?」
「私だって、食べてないよ?」
 サニーとルナが発した驚愕の二重奏。
「間違えた『あなただけにあげる』だったかしら」
 言い直すがスターの疑惑は消えない。二人の疑念を察したか、スターは誤魔化すように言葉を続ける。
「その時にメイド長さんが『そういえば、うちの美鈴がよく居眠りをしているのだけど、そんな場面に出くわしたら遠慮なく悪戯してあげててね』と笑いながら言っていたわ」
「あら、紅魔館公認なら大丈夫ね」
 先ほどまでの不審もどこへやら。目を輝かせるサニー。
 ずっと前のお菓子より、目の前の悪戯。妖精の思考回路はきっとこんなところだ。
「ねえねえ、何の悪戯をする?」
 嬉々と打ち合わせをはじめるルナも同じ思考回路を搭載しているのだろう。
「ふふ、こんなこともあろうかと」
 じゃーんと、口で効果音を添えながら、どこから盗んできたのか1本の毛筆を取り出すサニー。これは、悪戯の定番、くすぐりに使うのだろうか。まあ、妖精の悪戯はきわめて無思慮で、人の目をくらませて崖から落とすことすらある。この程度ですめばかわいいものだろう。
「私もこんなことがあろうかと」
 じゃーんと、同じく口で効果音を発して、スターが差し出したのは墨汁。悪戯はこの瞬間、確実にランクアップした。
「さすがね、貴方たち。ここは私が行くわ」
 満足げなルナはサニーから筆を受け取り、墨汁に突っ込んだ。
「ほっぺになんて書こうか」
「メイド長の名前を書いちゃえ。起きた時にメイド長の名前が顔にあれば、それはもうびっくりするでしょ」
 中々のセンスだ、サニー。妖精の発想ながら少し感心してしまう。さすがは悪戯のエキスパートだ。
「ええと、咲夜だったね」
 さらさらと筆を走らせるルナ。美鈴の顔はカメラから外れているので、その様子を察するしかないが、くすぐったいのか足がぴくぴく。
「片方のほっぺは咲夜で埋まったけど、もう片方はどうしよう? 何もないとバランスが悪いよね」
「そうね、右のほっぺを悪戯書きしたら左のほっぺも埋めよって、この前読んだ本に書いてあったわ」
 妙なこだわりをみせるルナと、出典が気になるサニーの言葉。
「じゃあ、もう片方のほっぺは私に任せて」
 スターが筆を譲り受け、かがみこんで筆を動かす。何を書いているか、こちらからは見えないが迷いのない筆運びだ。
 のぞきこむルナが小首を傾げていた。
「これ、なんて意味?」
「品質がいいって意味よ。褒め言葉」
「えー、そんなのつまんないわよ」
 不満げに頬を膨らますルナに、子供をあやすような微笑を向けるスター。
 果たして、スターは美鈴に情けをかけたのだろうか。
 いや、恐らく咲夜の名が先にあることを危惧したのだろう。咲夜の名前の後にバーカとか書いてしまえば、咲夜バーカとなる。文字が消される前に咲夜が見た場合、美鈴がそんな文字をわざわざ自分に書く必然性がない以上、脳裏に浮かぶのはこの三妖精。他の二人が余計な言葉を入れる前に、スターは適当な言葉でリスクを防いだのだろう。
 この子は、なかなかの腹黒だ。
「スター。言葉の後の『!』は?」
「えーと」
 しかし、このサニーの問いに対する回答は聞こえなかった。
 会話の途中、美鈴の足がぴくりと大きく動く。
「ん……?」
 短いうめきは、まどろみから這い上がろうとする美鈴の声。
「やば!」
 三妖精は瞬時に姿を消す。羽音さえ残さずに光にとけるように消えていった。何かの能力なのだろうか。
「なんか、くすぐったかった……」
 ようやく、美鈴のお目覚めだ。
 投げ出していた足が膝をおり、スリットが大きく開いて健康的な太ももがあらわになった。
 上半身を起こし、眠気を振り払うように大きな伸び。
「ふぁあ、まだちょっと眠いかも……あ、カメラ忘れてました」
 視界が反転し、カメラは眠たげな美鈴の顔を正面から映す。
 
 その片頬には「咲夜」

 もう片頬には「上等!」

 続けて読む。


『咲夜上等!』


 なんという蛮勇。
 不退転の意思を示す下克上ペインティングだった。
 今、にわかに風雲急を告げる紅魔館。
 だというのに、張本人は満面の笑顔をカメラに向けていた。
「最後はさわやかな霧の湖からお送りしました。以上、紅美鈴でした」
 それが、私たちが見た最後の美鈴の姿でした。
 ちょうど時間切れとなったテレビ画面の暗闇に、僕はそんなオチにならないことを願わずにはいられない。



 予想以上の混沌と化した紅魔館のビデオを取り出す。
 これは編集の腕が試される一本となりそうだ。



 さて、ようやく本編は最後の1本、永遠亭を残すのみ。
 永遠亭といえば竹林の奥深く、ひっそりとした佇まいが頭に浮かぶが、その名を知られるようになった月都万象展の印象も強い。あの万象展は、物珍しさや胡散臭さも含めて僕ら好事家には夢のひと時だった。非売品ばかりなのが口惜しくて、毎日閉館まで粘ったものだ。
 仲間の好事家が、珍品の数々に血迷って蓬莱山輝夜という主催者の女性に結婚を申し込んだそうだが、結婚の条件として博麗神社の神様を連れてこいという新難題『博麗神社の神様』を吹っかけられて断念したらしい。そういや、どこにいるんだろう?
 ちなみにその仲間の話では、輝夜は可憐な見た目に関わらず、いや、だからこそか、かなりわがままな性格ということらしい。
 まあ、振られた奴のひがみだ。参考にはならないだろう。
 永遠亭のラベルを貼られたテープを手に取る。
 実は、僕はこのビデオに期待している。
 もしかして、秘蔵のお宝を紹介する内容かもしれない。そうでなかったとしても、永遠亭を取り仕切る知的な薬師を思い浮かべる。ラベルの端には『監修・八意永琳』の文字。あの女性がまとめた内容なら、非常識な内容にはならないだろう。
 やはり、最後は落ち着いた内容で締めたいからね。
 


テープ4 永遠亭

 ダララララララッ♪

 再生ボタンをおすなり、軽快に鳴り響くドラムロール。
 何事か。
 画面を見つめると、画面は薄絹のような雲をまとった妖怪の山を映し出す。
 直後、せり上がってくるロゴ。
 飛び立つ鳩の群れと気分が舞い上がりそうなトランペットを背景に、その文字は画面に姿をあらわした。
『密着ドキュメント』
 暗転。
 続いて表示された白抜き文字は、恐らくタイトルなのだろう。

『真実の蓬莱山輝夜 −永遠の姫−』
 
「……」
 脳みその処理機能を超えた演出とタイトルに、僕は一時停止を押し込むしかなかった。
 まさか、オープニングがあるとは。
 確かに永遠亭には、幻想郷よりずっと進んだ月の品々があると伝え聞くが、このジャンルでも何か設備があったのだろうか。
 ま、まあ、あらかじめ編集してもらってると思えば、手間が省けてむしろありがたいじゃないか。
 そう思い直して、再び再生する。

 薄暗がりの部屋から、映像は始まった。
 雀の鳴き声。山吹色の光を透かした障子。その日差しの傾きから、どうやら明け方の時刻だとわかる。

『輝夜様の朝は早い』

 落ち着いた女性の声は、八意永琳のものだった。如何なる技術か、撮影中に拾った声ではなくて、声をだけを別に追加したような不思議な響き。
 その解説の声に合わせるかのように、部屋の中央に敷かれていた布団から一人の少女が身を起こす。
 鴉の濡羽色の黒髪が白絹の寝間着をさらりと流れた。
 カメラに映し出された眠たげな少女は、確かに美しかった。
 日本的美意識を刺激する、均整のとれた顔立ちと肌のきめ細かさ。その精美を彩る、唇に薄くひいた朱。頬に肌の色よりも明るい紅。形のよい弧を描く眉。櫛を通した黒髪。
 まるで寝起きとは思えない。
 ……いや、明らかに寝起きじゃないだろう。
 僕の疑問に答える声はなく、カメラは少女を映し続ける。
「あら、永琳。何をしているの?」
 まどろみの時間を抜け、ようやくカメラに気づいた様子。
 驚きを示す、口元を両手で覆う女性らしい仕草。よく手入れされた爪が艶やかに朝焼けを映す。
「突然で申し訳ありません、姫。永遠亭をテーマに撮影をするには、やはり姫の飾らない一日を撮らせていただくの一番かと」
「そんな、恥ずかしいわ。でも永琳の頼みなら断れないわね」
 ものわかりが良すぎる。
「ありがとうございます。今日一日お付き合いください」
「ふふ、お手柔らかにね」
 口元を隠したまま、慎ましく微笑む輝夜。
 ぞわりとした違和感。
 何かおかしい。
 月都万象展で少し言葉を交わした際の印象では、言葉の節々にざっくばらんな明るさが見え隠れする少女だったのだが。

『朝の支度を整えた輝夜様の下に、いつものように駆けつけるものが一人』
 ナレーションの言葉の余韻が消えるか否かの間隔で、廊下から軽やかな足音が聞こえてきた。
 足音は部屋の前まで近づき、止む。
「輝夜様、失礼してもよろしいでしょうか」
 その声に応じてカメラが映したのは、障子ごしの薄い影。すらりとしたシルエットの頭からのびる二本の耳。恐らく鈴仙という妖怪兎のものだろう。
「どうぞ」
 身なりを整え、取り澄まして応じる輝夜の声を確認し、障子を開ける鈴仙。
 鈴仙はその様子を眺め、しみじみと述懐した。
「こんな時間にきちんと起きているなんて……何年ぶりでしょうね」
「ウドンゲ」
 冷え冷えとした呼び声は永琳。
 びくっと、小動物の仕草でカメラに振り向く鈴仙。赤い瞳が何かに気づいたように強張り、ゆっくりと文字をなぞるように視線を動かす。
 鈴仙は一呼吸置いて、言い直した。
「昨日ぶりでした」
 言論統制の痕跡を感じ取られずにはいられない。
「ウドンゲ、朝食の支度はできているかしら」
 先ほどの声と同一人物とは思えない優しげな声に、鈴仙はようやく胸を撫で下ろした。
 永琳に向きなおり、少しだけ笑顔を取り戻す。
「え、はい、朝食の準備はできてますよ」

『慈愛に満ちた輝夜様は、たとえ下々の者の奉仕であっても感謝を忘れません』

 謎な上に、立ち位置が気になるナレーションだが、僕の興味はゆらりと動き出した輝夜に移っていた。
 輝夜は音もなく、カメラに向かい直っていた鈴仙の真後ろに立つ。
「ありがとう、イナバ」
 前触れもなく抱きしめる輝夜。
 鈴仙の耳がはねあがった。
「きゃあああ!」
 
『敬愛する輝夜様の労りに、思わず感激のため息をもらすウドンゲであった』

 恐怖と困惑を混ぜ合わせると、感激のため息になる。
 僕なら恐慌の悲鳴をあげるところだが、さすがは狂気の優曇華院。常人と違っていた。
 永琳のカメラはそんな鈴仙に何のフォローもせず、鈴仙の開いた障子から庭先の光景を映し出す。
 僕の聞き及ぶ範囲で見事な庭園といえば、白玉楼の枯山水だ。水面を模した白砂に、配置された自然石を中心とした砂紋。日本家屋が囲む庭園は外界から隔絶され、最小の要素で構成された別の世界が広がっているようだと聞く。
 だが、永遠亭の庭もなかなかどうして侮りがたい。
 枯山水のような極められた哲学はないが、苔むす石と手入れされた庭木の間を雨花石の敷き詰められた小径が縫うように続く。程よく年月の風化にさらされた垣根と、その向こうには涼しげな風を通す竹林。風情という点では、幻想郷でも指折りではないだろうか。
 永遠亭の朝は、実に心地がいい。
「姫、今日もいい日和ですね」
「本当ね、永琳。そして昨日と同じように今日も皆、幸せでありますように。えへ」
 この主従以外は。

『朝食を済ませた後は、日課である永遠亭の巡察に赴く輝夜様』 

 ナレーションとともに、永遠亭の長い廊下を進む輝夜が映し出される。
 さすがは姫と呼ばれる方だけあり、この暑い盛りに豪奢な着物を纏い、裾を乱さぬようしずしずと歩く様子は絵になっていた。
 それにしても、自宅の巡察ってなんだろう。
 ……ああ、自宅警備員か。

『もちろん、自宅警備員などではありません』

 なぜ、このナレーションは僕の心を読んだ。
 天才ほど厄介なものはないと心から思わずにはいられない。

『広大な永遠亭で様々な仕事を担う妖怪兎たち。その憧れの的である輝夜様の慰撫に、士気は高まるのでした』

 なるほど、輝夜の進む渡り廊下の先には沢山のウサミミが揺れて、忙しそうに動き回っている。
「あ、輝夜様」
 そのうち一匹が輝夜の接近に気づき、声をあげる。
 瞬間、一斉に妖怪兎たちが駆け寄ってきた。建物がひしゃげるのでないかという突進だが、輝夜はあらかじめわかっていたかのように身じろぎもしない。つき従っていた鈴仙だけが、部下の様子に半ば腰を抜かしていた。
「ちょっと、あなたたち……!」
 リーダーである鈴仙の声は、しかし次に弾けた妖怪兎たちの歓呼にかき消されて近くのカメラですら音を拾えない。
 妖怪兎たちは口々に叫んだ。

「輝夜様、万歳!」
「月麗の姫君、万歳!」
「慈愛の聖女、万歳!」
「永遠の美姫、万歳!」
「常勝無敗の大元帥、万歳!」

『自然発生的に輝夜様を讃える妖怪兎たち。強い絆を再確認する姫様だった』

 竹林の閑静な佇まいを吹き飛ばす、ばんざーいの連呼に鷹揚に手を上げて応える輝夜。
 月麗云々は、綺麗だとうっかり僕も認めてしまった部分だからいいとして、最後の呼称はなんだ。
「な、何なの、これ」
 あと、あなたの隣で腰を抜かしている弟子とは打ち合わせをしたほうがいいんじゃないかな、永琳。

『次に輝夜様が向かう先は、幸運の素兎として有名な因幡てゐ』

 ああ、一目見ただけで幸せになると評判の妖怪兎だね。
 果たして、ビデオでも幸運の効果があるのだろうか。
 まあ、鰯の頭も信心から。博麗神社のご利益も信心から。四葉のクローバーぐらいのありがたみはあるかもしれない。
「お邪魔するわね、てゐ」
 永遠亭の奥まった一室の襖を開けると、一見して子供のようなワンピースに身を包んだ妖怪兎が正座でお出迎え。何やら真新しい帳面を脇に置き、あらかじめ準備万端という様子。
「姫様、いつもお疲れ様です」
 かしこまった礼とともに頭をぺこり。
 兎たちの様子から薄々察してはいたが、てゐも首謀者の一人だろう。なんというか、口調が詐欺口調だ。
 鈴仙との扱いの対比に、人間関係が透けて見えて世知辛い。

『永遠亭の妖怪兎だけだはなく、財政をも管理する因幡てゐは、輝夜様の信任も厚い』

「先月の収支はどうでした、てゐ」
「はい」
 カメラが移動し、『永遠亭・総勘定元帳』と書かれた帳簿を映し出す。てゐが表紙をめくると借り方、貸し方、残高と、数字や項目が細かく書きこまれていた。
 ええと、その……うちより断然健全で、まともな経営じゃないか。
 少なくとも、うちの倉庫みたいなモノが消えたり減ったりの暗黒地帯は存在しない。
 こんな駄目な大人が、今まで偉そうにつっこみいれてごめんなさい。
 幻想やファンタジーで済まされない力の差を見せ付けられて、ちょっとブルーになる。それはたぶん、ゆったりと流れているこのヴァイオリンの音も原因だろう。
 オープニングのトランペットといい、あの三姉妹、永遠亭に抱きこまれたな。この二人が交互に躁鬱の演奏を繰り返し、末妹が気づかないうちに場面場面に挿入すものだから、精神が脆く緩んできた感覚がある。
 具体的には永琳のナレーションに「さすがは輝夜様」と相槌をうちたくなるのだ。
 今だけは、気をしっかりもつんだ霖之助。
「先月の利益はこうなっています。師匠の診療や鈴仙の薬販売や、私も色々したりしましたが、何より輝夜様のご威光の賜物です」
 笑顔のてゐ。
 なるほど、永琳は新薬と治療を、鈴仙は人里での販売を、てゐはお賽銭詐欺を、そして輝夜はご威光を。それぞれの手段で稼いでいたのか。
 ……この中で、一人だけ何もしていない奴がいるのは気のせいか?
 第一容疑者こと、月麗の姫君は優しげに微笑む。
「では、いつものようにその利益は余すことなく無償の治療薬にあてるのよ」
 その台詞を口にする輝夜は、若干、慈愛の聖女に見えなくもない。
「かしこまりました」
 嬉しそうに返事をするてゐだった。

『このように、全ての収益は慈善事業に回されるため、課税対象となる利益はありません』

 さすがは天才。姫のPRと税金対策を同時にするとは。もはや紙一重だ。
 いや、まあ、里で無償で薬を配る鈴仙の姿は時々見かける。まったくの嘘ではないのだろうし、実際に救われる病人も多くいる。胡散臭くなってしまったが、これも一面では真実だ。
 ひょっとしたら、今回の真新しい帳簿の他にもう一冊、使いこんだ帳簿があるのかもしれない、が。

『永遠亭の巡察を終えた輝夜様は、竹林近くの里へもお姿をお見せになります』

「おお、輝夜様!」
「ありがたや、ありがたや……」
「なんと、輝夜様に拝謁しただけで持病の癪が治ったぞ!」
 すでにわかりきっていたことだが、輝夜は村人に異常に慕われていた。
 村人とエキストラを見分ける方法は簡単で、懐がお金の形に膨らんでいるのがエキストラだ。
 背景に流れるトランペットの調べが無理やり村人と気分を同調させようとするが、僕は自分の見つけた事実にしがみついて何とか転倒を免れる。
 けれど、次から次と吹き荒れる強風に精神がもちそうにない。
 画面から押し寄せる洗脳の意思に、このまま見ていると脳みそが沸騰しそうだ。
 もう勘弁してくれ。
 早送り押してもいいよね? 僕、頑張ったよね?
 まるでゴールするようかのような思いで、震える指を早送りへ持っていく。
「お姉さん、竹林の永遠亭の人?」
 その時、これまでの作り声とは違う幼い声が聞こえてきた。
 何事かと画面を見ると、7、8歳程の少女が輝夜の前に立っている。
「そうよ。なに?」
 突然の乱入者に、不思議そうに屈みこんで問い返す輝夜。
「あのね、昨日、竹林で兎さんと出会って遊んで、今日も遊びたかったんだけど……お母さんが竹林は危険だから行くなって。大丈夫だよね、行っても。今日も遊べるよね」
 いや、竹林に住み着く妖獣や妖怪は数知れず。特に成り立ての妖獣、腹を空かせた妖怪は、竹林に潜む人食い虎のように躊躇なく人を襲う。
 輝夜は取り澄ました笑顔を消した。
「あー、お母さんに感謝しないとね。今日も竹林に行っていたら、あなたみたい美味しそうな子、怖い怖い妖怪にペロリよ」
「でも、約束した……」
「竹林の奥から飛び出して、振り返る間もなく頭からがぶり、そのままさようならよ」
「でも、約束している……」
 きっとその子にとって、約束は何よりも重いのだろう。
 何より、約束した妖怪兎が自分がこない竹林でずっと待ち続けていることを想像して、心がちくちく苛むのかもしれない。
 輝夜は頑なな意思そのものと化した少女の頭に、優しく手を置く。
「はあ、今時の子は皆、妹紅みたいに思い込んだら一直線なのかしら」
「妹紅?」
「そう、妖怪もんぺ女。竹林付近をうろつく最も野蛮で危険なケダモノよ。お母さんに、変質者と伝えればわかってくれるわ」
 今度は子供に間違った知識を教える輝夜。まあ、いいか。害にはならないし。
「とりあえず、その妖怪兎の名前をおねーさんに教えなさい。『今日からは里の近くで遊ぼうって』伝えとくから。できるわよね、イナバ」
 呼びかけられた鈴仙は、この映像で初めての華やいだ笑顔を浮かべた。
「任せてください」
「あなたは、人参でも持って里の入り口で待ってなさいな」
「ありがとう、お姉さんたち!」
 感情のこもった笑顔とお礼に、輝夜は少女の頭をぽんぽんと優しく鳴らす。
 釣られて微笑むのを堪えた、照れを隠し切れない無表情。
「何よ、永琳もイナバもニヤニヤして。気持ち悪い」
 明らかに誤魔化しの舌鋒を、永琳は苦もなく受け流す。
「いえいえ、申し訳ありません。この辺りで少し休憩しますか?」
「そうね、調子も狂っちゃったし」
 いやいや、これまでのどんな演出よりもよかったよ。
 これからも、ちょっとしたアクシデントから永遠亭の素顔がのぞけるかもしれない。
 もう少しだけ、見てみようか。


 それから一時間ほどの精神的格闘の末、ようやく僕は最後の舞台へたどり着いた。

『一日の終わりに、輝夜様はそっと月を見上げます』

 終わりという単語に、最後の気力が生まれる。
 ついに、早送りを押すことなく最後のステージ。永琳に洗脳されることなく、ここまでたどり着いた。しかし、もはや心の残機は0。魂のボムは0。精神のカスリ点、沢山。なんとしてもクリアしてやる。
 輝夜は夏の夜空を窓辺に腰かけ、見上げている。
 行灯の光に浮かびあがるその姿は、悔しいが完璧な月麗の姫君だった。
「月もおぼろないい夜ね。薄雲に光を隠されて、月がもうこの世のものではないみたい」
 幽幻に霞む月は風情があるものだが、輝夜の言葉には隠された感情があるような気がしてならない。
 永琳は何も言わず、カメラ越しに姫君の表情を見つめ続ける。
 二人の間に、僕には推測もできない静かな沈黙が横たわっていた。
 輝夜は雨戸を閉め、行灯の明かりだけとなった室内で永琳に向き直る。
「ねえ、永琳は……」
 輝夜が口を開いた刹那、雨戸がはじけた。否、粉砕された。
 突き抜ける影。吹き飛ぶ木片より速い疾風。人の姿だと気がついたのは、振り向きかけた輝夜の顔面に赤モンペの膝が吸い込まれた後だった。
「つぎょっ」
 月麗の姫君は独創的な絶叫を残して壁まで転がっていく。
「輝夜!」
 月明かりが侵入者の輪郭をくっきり描いた。怒りの声を吐き出す赤い影は藤原妹紅。月光の色を帯びて、銀糸のような白い髪が夜風にたなびく。
 敵の本拠地まで乗り込んでの襲撃だった。
 永琳や妖怪兎たちが詰める決死の地に自ら進んでくるとは、何が彼女を駆り立てたのか。
「あんた、人を変質者だと吹聴してくれたらしいわね! おかげで、慧音が『お宅で匿っている変質者について』と詰問される羽目に!」
 あ、確かに言った。
「おまけに『本当に何もしてないと、信じていいのか』って、慧音にちょっと疑われたんだぞぉ!」
 あまりに残酷な告白を聞きながら、永琳はひたすら妹紅を映し続ける。あなたの輝夜様が足蹴にされたというのに、見事なプロ根性だ。
 その輝夜は床に大の字に這いつくばっていたが、さすがは常勝無敗の大元帥、なんとか上半身だけを引き起こす。
「輝夜、覚悟はいいわね?」
 決闘の申し込みとしてスペルカードを提示する妹紅。
 輝夜は立ち上がったものの、足蹴にされたにも関わらず好戦的な素振りはまるでない。
 害意のなさを示すように、その場に棒立ちになる。
「……妹紅、勝負はしないわ」
「あんな真似しておいて、ふざけるな!」
 妹紅の言葉に、輝夜は悲しげに眉をひそめる。
「今回はとても不幸な事故だったの。まさか、『竹林で変質者から皆を守る藤原妹紅』がそんな伝わり方をしていたなんて、はじめて知ったわ」
 なぜ、永遠亭には躊躇なく嘘を吐ける人材が豊富にいるのだろう。
「そんなわけあるかっ」
「正しい事実であっても、人の口を介すると根も葉もない噂に変じるもの。私も昔、絶世の美女、天上の花とか、好き勝手な評判を立てられた時は苦労したわ。ある日、藤原不比等という人が会いにきたのだけど『え、言うほどじゃないような? でも、もう求婚してしまったし、やんぬるかな』と、私の心に傷を残したり……」
「お父様が!?」
 事情は分からないが、信じるな。
「それに、あなたと無駄な争いはしたくないのよ。なぜなら、あなたはこれからも共に無限を生きる同じ存在」
 何か受信したのか、それとも若年層特有の病気か、定かではない輝夜の言葉だったが、意外にも妹紅には響いた模様。
「っ!」
 舌打ちをもらして、提示したスペルカードを懐に戻した。
 輝夜は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
 妹紅は思わず距離をとろうと後ずさるが、もとよりさほど広くない室内。すぐに背中を壁につける。近寄る輝夜を警戒しつつも、妹紅はそれ以上逃げようとはしなかった。
「今、私の命が欲しければいくらでももっていけばいいわ。私は抗いはしない」
 命は、そんな大盤振る舞いしていいものなのだろうか。だが、妹紅も永琳も、誰もくすりとも笑わない。ただ、じっと次の輝夜の言葉を待っている。
「でも私たちの永遠に、つまらない誤解が歪みとして残るのは悲しいことだと思うの」
 まっすぐに輝夜の視線を受けて、ぷいと顔を背ける妹紅。
 この場合、視線をそらした方が負けだ。
「興が冷めちゃった」
 あくまでも不満げに顔をしかめながら、降参宣言。
「一撃をくれてやってすっきりしたし……こ、今回だけはそうしてもいいかなーと思わないでもないけど」
「信じてくれてありがとう、妹紅」
 手を握らんばかりの蓬莱山輝夜から、妹紅はますます顔を背け、表情の照れを隠す。

『変質者をも改心させる輝夜様の慈愛は、今日も幻想郷を優しく包み込むのであった』

 台無しな上に、勝手に幻想郷規模まで話を広げたナレーション。
 それが終わるか否やに、唐突に明るい声が響いた。
「はーい、カーット! お疲れ様でした」
 撮影者の永琳である。
「ようやく終わったのね」
 嬉しげな輝夜の声が聞こえるものの、僕は状況の変化が読み込めない。
 それは妹紅も同じことで、いぶかしげな視線をカメラに向けようとしていた。
 瞬間、妹紅が体をくの字に折り曲げる。
「かはっ」
 うめきとともに肝臓付近を押さえた妹紅が床に崩れ落ちた。拳を握りこみ、勝ち誇る輝夜がそこにいた。
「お腹でも壊したのかしら?」
 フィニッシュ・ブロウをねじ込んだ拳を腰にあて、勝者の笑みで妹紅を見下ろす。
 こいつ、やりやがった。
「か、輝夜。お前……!」
 苦痛と驚愕に、苦しげな息。
「撮影はもう終わったわ。ここからは永夜百倍返しの時間」
「だ、騙したなー!」
「フハハハ、勝てばよかろうなのだ! 新難題『エイジャの赤石』」
 撮影中で最も生き生きとした輝夜の笑顔を映して、視界がくるりと回る。

「永遠亭の紹介はここまでです。お付き合いくださり、ありがとうございました」 
 撮影者の永琳が、今回はじめて顔を見せた。
 整った顔立ちに、理知的な眼差しと何もかも見抜くような微笑。
 その横顔が真昼のような閃光で照らされたり、「お前も道連れだ、輝夜。フジヤマヴォルケイノぉ!」と絶叫が響いたりするが、惨状を無視して永琳は言葉を続けた。
「今回、編集していただけるとのことですが、森近さんにお手間をとらせるのが恐縮なので私どもで編集いたします。ですから、先ほどのカットの発声以降だけカットしてくだされば結構です。それ以外は全てそのままご使用ください」
 いや、カットの声以前を全部カットしたいぐらいなのですが。
「もし、それ以外をカットしたときは残念ながら……」
 言葉を区切って、名画のように完璧な笑み。ふと、目だけが笑みを消した。
「どう成り果てちゃうのかしら、ね?」
 そして暗転する画面。
 ブラウン管に映る、逆らえるわけもない僕。

 ……さあ、編集作業に入ろう。



 不慣れな作業は、肉体よりも精神を苛む。
 編集作業をなんとかやり遂げた僕は、迂闊にもその場で眠りほうけてしまった。
 目が覚ますと、時刻は午後3時。ずいぶんと半端な時間に起きてしまったものだ。
 あとはビデオテープを魔理沙か霊夢の渡すだけだが……
 さてはて、置いてあったはずのビデオテープがない。
 代わりに、そこには一枚のメモ書きと、文鎮代わりに見覚えのないビデオテープが一本置いてあるだけだった。
 メモ書きを見てみる。

『勝手にもらっていくぜ。
 あと、テープが1本余ったから置いていく。
 しまっとけ』

 簡潔すぎる内容だが、魔理沙の顔がありありと頭に浮かぶ。
 それにしても、あの騒がしい子が僕を起こさないように気を使ってくれたのだろうか。
 魔理沙を膝の上にいて遊ばせていた頃を思い出す。僕の本への落書き、魔理沙が香霖堂に持ち込んだ初めての蒐集物、春雪異変の解決を自慢げに教えてくれて、その時に渡された桜の花びら。
 今はこのメモ書きと、こうして少しずつ成長の痕跡を残しながら、気がつけば魔理沙は大人へとなっていくのだろう。

 まあ、そんな感慨はおいておいて、仕事納めに入ろう。
 この余ったテープを倉庫にでも放り込めば、あとは機材を持って帰ってもらうだけ。
 ……余った?
 僕の中に違和感が芽生える。
 魔理沙の行動原理からして、余ったものをわざわざ返しにくるだろうか。あの僕を上回りかねない収集家は、家のどこかにしまいこむのが常ではないだろうか。
 何かある。
 予感と確信を抱き、僕はそのテープをデッキへと投入した。



テープ5 香霖堂

 やはり、予感は正しかった。
 ビデオが映し出したのは、この香霖堂内部。
 カメラは臆することなく奥へ向かい、ビデオ編集後、居間で力尽きていた僕の姿を映し出す。
 これは、恐らくつい先ほどのことだろう。
 映像の中の僕は、眼鏡も外して深く寝入っている。
 無防備に口まで開いて、かなりの間抜け面だ。寝顔をとられるというのは、こんなにも恥ずかしいことだったのか。
「昼時だってのにいい身分だ」
 予想通り、撮影者は魔理沙だ。
 よせばいいのに、アップまでして人の寝顔を撮影している。
 ひどい嫌がらせだ。それに野郎の寝顔という1銭の価値もないようなものを、なぜ映像に収めるのか。
 じっと僕を映しこんだカメラの視界がずれて、編集機材と、『完成版』とラベルに殴り書きしたテープを見つける。
「お、仕事が早いな。ご苦労さん」
 誰のための苦労だと思っている。カメラ越しにニヤニヤ笑っているだろう魔理沙へ、若干の憤りが湧いてこないでもない。
「それにしても、香霖は取り澄ましているくせに、感情を隠すのが下手だよな。今回も、ずっと『よくもこんな厄介事を』って顔をしていたぜ」
 ……そうなのか?
 魔理沙の指摘に、思わず自分の顔を触ってしまう。そういえば、魔理沙の親父さんには商売をするにはまだ修行が必要だと言われたことがあったが、もしかしたらその部分を指していたのかもしれない。
「だけど、私が厄介事を頼むのは香霖のせいでもあるんだけどな」
 魔理沙の声に、僕はいぶかしむ。魔理沙の恨みを買ったことでもあったのだろうか。
 いや、だとしたらマスタースパーク一発でチャラというのが魔理沙の気性だ。つまり、僕にとって魔理沙の恨みを買うことイコール死だ。気をつけよう。
「香霖、いつも私に遠慮してるだろ」
 遠慮といわれて思い当たる節は……僕がかつて魔理沙の実家に厄介になっていたことだろう。その上、僕は自分の能力を生かしたいという自分本位の理由で、商売のイロハを教えてくれた魔理沙の親父さんの元から飛び出した。懐いてくれていた魔理沙の前から突然姿を消したことにも、負い目はある。
「事あるごとにガキ扱いまでしてさ」
 それは年齢差もあるが、幼い頃を知ってしまっているという点が一番大きい。一番長く接していた幼少の頃の魔理沙が、印象に強く残るのは仕方ない。半人半妖の僕は、人の成長する感覚がうまくつかめないのだ。
「まあ、遠慮したら私はそこに付け込むしかないし、ガキ扱いしたなら甘えられても文句言えないよなー」
 勝手なことを言いながら魔理沙は僕へカメラを戻す。
 あいも変わらず熟睡中の僕。
 その僕に、魔理沙の右手が伸ばされる。
 魔理沙の手は、眠り呆ける僕の前髪をそっとかきあげた。
 穏やかな沈黙が続く。
 やがて僕にかけられたのは、驚く程に優しい魔理沙の声。
「悔しかったら態度を改めろよ、香霖。それまで、当分甘えさせてもらうからな」
 その台詞を最後に、映像は途切れた。



 今回の苦労に対して、思わぬ報酬となったビデオテープを取り出し、僕は魔理沙を思う。

 うん、そのうち努力はしてみるつもりだよ、魔理沙。
 だけど、まだしばらくは僕の我侭に付き合ってほしい。
 君がもう少しだけ大人になるまで、僕はまだ頼られる兄でありたいのだから。

 電源を落としたテレビジョンのブラウン管を覗き込むと、僕の顔が間抜けに引き伸ばされて映りこんでいた。
 こいつは喜んで厄介事を引き受けようというのだから、見た目のとおり、とんでもない間抜けと言えよう。
 けれど、その間抜け面が浮かべているのは、憂いのない微笑。

 お前の微笑の正体は、幸福という名の感情だよ。

 大切なことをいつもは気づかないでいるその間抜けに、僕は心の中で呼びかけるのであった。









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