赤と紅

TOP



 深まりゆく夏を告げるツクツクホーシ。暦の上では処暑だが、日差しは未だ真夏そのもの。微風すら吹くこともなく、じりじりとした暑さが大気にとどまっている。
 空は青く、高い。先日の夕立が空気の塵を洗い流してくれたのだろうか。
 ここは霧の湖の畔、紅魔館。濃い霧が立ち込めた紅霧異変もすでに過去のこと。照り返しでゆらゆら輝く湖面に陽炎。件の館も、今は昼下がりの陽光に深い紅をさらしていた。
 この炎天下で、館の門番こと紅美鈴はすでに木陰へ待避済みだった。先ほどまでは眩暈と汗の気持ち悪さに耐えて立ち尽くしていたのだが、頻繁に意識が飛び 始めてから生命の危機を悟ったのだ。妖怪だろうがなんだろうが暑いものは暑い。湖畔近くで雄大に枝を広げるケヤキ。その幹に背中を預けて腰を下ろしてい た。木々を抜けた日差しは剣呑さが濾過されるのだろうか。穏やかな木漏れ日に彩られて少しばかりの休息。
 しかし、座り込んでもう20分。小休止の範囲を踏み越えようとしていた。深い呼吸に合わせて上下する濃緑の帽子を見るに、どうやら、シエスタから本格的な仮眠に移行しつつあるようだ。
 こんな様子では、門の前に誰が来ても気づく訳がない。外から誰が来ようが、あるいは内から誰が出て来ようが。
 果たして、門から姿を現したのは美鈴の上司、館のメイド長咲夜。
 遠慮のない日差しに少し眉をひそめつつ、美鈴の姿を探す。館の掃除中、窓から見える門の周囲に美鈴の姿がないことを不審に思い、表まででてきたのだ。
 とはいえ、木陰で寝息を立てる美鈴にはすぐに気づく。遠目でもわかるほど、眠気に委ねた緩い寝顔だ。大きく開きっぱなしの口が、眠りの深さを物語る。
「予想の範疇ね」
 つぶやいて、咲夜は自らのうなじを伝う汗をハンカチで拭う。湿気も高いのだろうか、何をしているわけでもないのに、じんわりと汗ばんだ心地。
 木陰に逃げ込んだ美鈴を見なくても、日向に立ち尽くしていろというのは無理な話だと悟る。それでも、居眠りとなると話は別。
 咲夜はついに美鈴の前にたどり着き、かがみこむ。咲夜の影を落とされて、いい日除けを得たとばかりにますます健やかな美鈴の寝息。よく見ると、口の端か ら光るものが。さすがに女の子として、これはどうかしら。ハンカチを裏返し、美鈴のよだれを吹いてあげる。顔に刺激を受けて、美鈴の寝息が浅くなった。
「美鈴」
 その機に呼びかける咲夜。すぐに起きて謝ってくれたら大目に見てあげよう。「ね、寝ていませんよ」といつものように通じない言い訳をしてきても、デコピンぐらいで許してあげよう。しかし、返ってくるのは幸せそうな寝息のみ。
 ため息。振り上げる右手。
「起きなさい、仕事中よ」
 言葉とともに振り下ろされた、拳骨。



 窓の少なさが示すとおり、この館はなるべく自然光をさえぎるよう作られている。
 特にその傾向が顕著なのは、棺を寝床とする二人の吸血鬼レミリアとフランドールの居住区と、魔法使いパチュリーの蔵書が眠る大図書館。吸血鬼も紙も、日の光に焼かれてしまうのは同じこと。
 そんな図書館の暗がりにぽっかりと浮かぶ、ランタンに照らされた一角。本棚を真剣な面持で見つめる赤髪の少女がいた。本棚の回廊を巡っては手元の図書目録と本棚を見比べている。その背と頭には、こうもりに似た羽が二枚ずつ。
 彼女は読書に明け暮れる図書館の主に代わり、図書館の司書を自任している小悪魔と呼ばれる存在。当然本名は別にあるはずだが、誰も知らない。もっとも紅魔館に住む小悪魔は彼女だけ。何も不便はなかった。
「パチュリー様、ここも抜かれてますよ」
 目録に何度目かのチェックを入れて、小悪魔はため息混じりに呼びかける。
「あら、そう」
 少し遅れて、図書館の奥からか細い声が返ってきた。
 喘息持ちの魔法使い、パチュリーの言葉は静寂の図書館であっても聞き取りづらかったものの、小悪魔は耳を澄まして聞き逃さない。
「今月に入って、もう十冊目です」
「困ったものね、あの白黒」
 犯人を断定したパチュリーの即答。小悪魔の脳裏に、盗人猛々しいという言葉を具現化したような魔法使いの少女の姿が浮かぶ。
「やはり、咲夜さんに頼んで警備を強化してもらいますか?」
 その問いに対しては間があった。
「いえ、必要ないわ」
 そうですか、彼女に来てもらえなくなりますしね。相手から姿が見えないことをいいことに、悪戯っぽく表情を綻ばす小悪魔。その様子を察したのか、自らの言葉に隠れた言外の響きに慌てたのか、幾分強い口調でパチュリーの声が続ける。
「きちんとした理由があるのよ、小悪魔。魔理沙は本に限らず得た知識をすぐに使いたがるでしょう?」
「はい」
 小悪魔も話には聞いたことがある。直接目にした記憶と本の記録を元に、マスタースパークからパチュリーのノンディレクショナルレーザーまで実に節操がない。
「私は知識を蓄え、理解するのは得意だけど、長時間の試技は苦手。体がついていかない」
 小悪魔はパチュリーの姿を思い浮かべる。部屋着代わりのゆったりとした絹のネグリジュに包まれたパチュリーの体は、確かに両腕で抱きしめたら壊れそうなほどか細い。
「本に知識を書き残す人は、掘り起こされて再び現世にあわられることを望んでいる。魔理沙のような暇人が本を生かしてくれるなら、少しぐらいなら任せてもいいの。死蔵なんて言葉、私の図書館にあってほしくないわ」
 珍しく自分の意見を長く話したせいか、次のパチュリーの言葉には若干の照れを誤魔化す様な響きがあった。
「小悪魔も読んでいる本があるなら、幻想郷で試してみることね」
 今、読んでいる本ですか。小悪魔は最近手に入れた、外の世界から香霖堂経由で入手したばかりの数冊の本を思い浮かべる。幻想郷入りするまで待っていては、なかなか面白い本に出合えないので、少しばかりのフライング。
 しかし、外の本は外の事象を前提に論が展開するため、小悪魔には理解しきれない部分が多々ある。
「今、ちょっと気になる本はありますが、まだ表面をなぞって読んだだけですので実践までは難しいですね。第一、その本の示すものが私に必要かどうか……」
「だったら、必要そうな人に貸してあげればいいじゃないの」
 パチュリーの言葉になるほどと、手を合わせる小悪魔。必要そうな人ならば一人、思い当たっていた。
 想像の中の彼女は、紅魔館の門でいつも欠伸をかみ殺して立ち尽くしている。
 紅美鈴だった。



「うー、たんこぶがこんもり」
 日差しも陰りを見せ始めた夕刻。紅魔館の門にはいつものように紅美鈴の姿があった。
 居眠りへの戒めとなったたんこぶをさすり、強く触りすぎて涙目を繰り返す。それもまた、いつもの風景だった。
 咲夜さんもあんなに怒らなくてもいいのに、直前までは頑張っていたんですよーと、頬が不満の言葉にぷうと膨らむ。
「それに……」
 ぐー。美鈴が続けて愚痴りたかったことを、お腹の音が雄弁に物語る。 
 罰として遅めの昼食も、咲夜お手製のお菓子も今日は抜き。夕ご飯だって呼ばれるかわからない。かといって、通りすがりの人を食べることに考えが及ばない のが紅美鈴という妖怪だった。美鈴にとって、人は愚痴を聞いてくれたり、腕試しを受けてあげたり、時には釣果からお裾分けをくれる釣り人だったりと、少な くとも食料ではない。それよりも上等な何かだ。
 日の傾きが大きくなってきた。夕日の先端はすでに地表に届こうとしている。
 一日続いた容赦のない熱気もだいぶ和らぎ、夕凪を過ぎて妖怪の山から吹き降ろす風に少しばかりの涼がこもる。
 夕焼けの及ばない空はすでに藍から紺色に、夜の領域を広げていく。風に揺らぐ湖面は夕日の残滓を受けて、静かに眩い光の乱反射。
 ため息を誘う風景に、ため息のみならず愚痴まで誘われる美鈴。
「門番の仕事はしっかりやっているのにな。咲夜さんも、もうちょっと優しくしてくれもいいのに」
「そうですよね、美鈴さん」
 不意の同意に、周囲を見回す。誰の姿もない。しかし、美鈴の耳にはかすかな羽ばたきの音。翼ならば……
 やはり、声の主は頭上だった。 
「ちょっと、お邪魔していいですか」
「小悪魔さん?」
 見上げると、パチュリーの大図書館で見知ったその姿があった。小脇に大切そうに本を抱え、膝をおり、スカートを押さえた仕草で門の上から降りてこようとしている。夕日を透かした茜色の髪が、さらさらと風に流れていた。
「どうしましたんですか、こんなところまで」
 訝る美鈴。小悪魔は常に図書館にいるもの。これは紅魔館にいる者にとって、美鈴が門にいるよりもずっと確かなことなのだ。
「いえ、いつも図書館にいるのでたまには夕日でも見にこようかと外に出たのですが」
「ああ、なるほど」
「戻ろうとしたとき、失礼ですが、美鈴さんの言葉が聞こえてしまって」
 愚痴を聞かれた気恥ずかしさよりも、聞いたのが咲夜ではなくてよかったという安堵感に、大きな胸をほっとなでおろす。
「あー、それは聞き苦しいことをすいません」
 地に降り立った小悪魔に、照れ交じりに誤魔化しの苦笑いを浮かべた。
「いえ、美鈴さんがそう思うのも無理がありませんよ」
「え?」
 相槌というには真剣な口調の同意に、美鈴の唇から戸惑いの呟きがもれる。
「美鈴さんは、雨の日も風の日も、今日のような暑い日にも立派に職務をこなしているだけではなく、花畑の世話までして、まさに紅魔館の大車輪だと思います。本当に、紅魔館一の働き者です」
「えええっ!」
 突然降って沸いた激賞に、美鈴の脳みそはまるでついていけなかった。しかし、その内容のいずれも普段「私だって、こんながんばっているのにー」と、思っ ていることばかり。小悪魔の言葉の咀嚼がようやく終わると、褒められた、認められたという充足感が全身を駆け巡る。妖怪のくせに自己評価の低い美鈴には、 その反動が強烈だった。
「そ、そんなことは、別に! い、いやー、でもそう思ってもらえたのは嬉しいかなーっ」
 表向きの謙遜が湧き上がってくる歓喜に吹き飛ばされて、後半の台詞は笑顔が蕩けそうだ。
 その笑顔に愛想のよい微笑みを返す小悪魔。押し花にした花の乾き具合を確認するときと、同じ瞳で美鈴を見つめている。
「いえ、当然のことです。でも、紅魔館の全員がそう気づいてくれていないのが私は残念です。たとえば咲夜さんとか」
 瞬間、美鈴の笑顔が強張った。少し我に返ったのか、続く美鈴の笑い声は乾いたものだった。
「あははは、人の評価は私の努力だけでは決められませんから。私なりには頑張ってはいますけど」
 でも、今日の居眠りは間違いなく大きなマイナスを生んだことには気づいている美鈴だった。せめて咲夜さんだけは高い評価をしてもらいたいのにと、少し落ち込む美鈴。そこに滑り込むこむようなタイミングで、小悪魔が口を挟む。
「私の思うに、美鈴さんのアピールが足りないことが原因ではないでしょうか」
「アピール?」
「そうです、労働のアピール。もしかして、美鈴さんは咲夜さんに対して、自分の仕事をきちんと給料に換算するとこれだけの価値があると、提示したことがないんじゃありませんか」
 したことは当然ない。返答の代わりに危険物が飛んできそうだから。
「それがいけません」
 力強い断言に、美鈴は戸惑いに小首を傾げつつも、次の言葉を待つ。
「まず、こちらがきちんと要求しなければ、相手はその必要性にも気づけないものです。あなたの労働の価値を知って、初めて咲夜さんも得がたい人材である美鈴さんに、休みを多くあげよう、給料を増やそう、丁寧に扱おうという気になるのです」
 拳を握らんばかりの小悪魔の熱弁に、言われてみればまったくその通りかもと思う美鈴だった。相手が自分のことを案じるがゆえの言葉と信じてしまっただけに、本来は唐突極まりない小悪魔の言葉を思考が受け入れていく。次の美鈴の言葉も、その流れにそったものだった。
「でも、どうすればいいのか……」
「大丈夫です」
 言葉と共に差し出されていたのは、小悪魔が最初に抱えていた一冊の本。
 いつの間にか太陽は完全に没し、暮六つの薄暗がりが湖畔に下りていた。間近にいるはずの小悪魔の表情も影が濃く表情が伺い知れない。
 暗がりから、声だけが優しく忍び寄る。
「ちょうど、いい本が手に入ったところなんですよ」
 悪魔の囁き。そんな単語がなぜか不意に頭に浮かぶ美鈴だったが、慌てて思考から打ち消す。小悪魔さんはこんなに親身になって私を気にかけてくれるのに、私はなんて失礼なことを考えたのだろう。
「ありがとうございます、小悪魔さん」
 『Hでもわかる労働者の権利』というタイトルの本を受け取りながら、笑顔を返す紅美鈴だった。



 翌日、咲夜にとって日差しの強さまでもが昨日と変わりばえのない一日になるはずだった。
 少なくとも、昼下がりのこの瞬間までは昨日とまったく同じ時の流れを進んでいた。
 広い屋敷の掃除を一通りすまして、一息を入れていた咲夜。
 この屋敷の主は太陽が大の苦手の癖に、シーツは日の光を吸ってふっくらと柔らかくないと不満を言う。図書館の主は喘息持ちなのに本棚に積もる埃に注意を払わない。洗いざらしのシーツを日干しし、埃をあらかた掃き出した後に換気して、ようやく掃除も終わりが見えてくる。
 もちろん、咲夜の仕事はそれだけではない。短い休息の後は、主のみならず、館の全メイドと門番のためにおやつを用意しなければならない。特に気まぐれで遊び好きな妖精メイドは、これだけが目的で働いているようなものだ。お菓子作りとはいえ気の抜けることではない。
 ある程度、作りおきをしておけることだけが救いだった。
 咲夜の脳裏に浮かぶのは、地下の保冷室。そこには主の不意の我侭に備えて氷すら常備している。秘密は、保冷室に居つく一体の妖怪。幻想郷でも屈指の豪邸 である紅魔館は保冷室までもが広大で、冬の妖怪レティ・ホワイトロックが一匹、避暑のために惰眠を貪れるほどのスペースがある。
 冬には絶大な力を持つレティとはいえ、夏には寒さを操る程度の能力もろくに働かない。今は保冷室の冷気や物質の温度を保つのがやっと。食料の保存にはちょうどよい具合だった。
 安全に惰眠を貪りたいレティと食料の保管をしたい咲夜。両者の思惑は合致している。
 その保冷室に昨日のうち用意していたのは桃のシャーベット。作り方は簡単。皮をむいた桃を一口大にカットし、水を入れておいた鍋に入れ、煮込む。その上 でわずかに逃げる甘みを砂糖で補い、加えた甘みを引き立てるレモン汁を少々。弱火で水気がなくなるまで煮込み続けたら粗熱が取れるまで待ち、保冷室の、な るべくレティの近くに置く。翌日にはシャリシャリの歯ごたえが夏の火照りをひんやり冷ます桃のシャーベットの出来上がり。冷やしている間、レティにつまみ 食いされるので多めにつくっておくことがコツだ。
 瀟洒なメイドはよどみなく器を並べていく。手が止まったのは、最後の一つ。それは席に座らず、門を守り抜かなければならない部下の分。美鈴用に別にとっておいた器は、他の器に比べて大きめなものだった。
「昨日は悪かったからね」
 いい訳めいた言葉を贔屓の免罪符に、おやつの準備を続ける咲夜。元から、このメニューは咲夜が知る美鈴の好物に合わせたものだった。昨日の戒めは拳骨とおやつ抜きでおしまい。次は暑い中での頑張りには報いてあげる番だと、支度を始めたのだ。
 第一、料理は美味しそうに食べてくれる人に合わせて作りたいもの。満面の笑みで「はー、生き返りましたー」とシャーベットを頬張る美鈴の姿を容易に想像できる。作業を進める咲夜の手も知らず、軽やかに動く。
 いよいよ美鈴のためのシャーベットを器に移そうとした時だった。
「あー、あー、テステス、まいくテスト。本日はー、晴天ナリ」
 ひび割れた音が聞こえたきた。風を通すために開け放たれた窓から、圧倒的な存在感で。
 無理やり出力を上げられたような声色だが、かろうじて咲夜にはその声の主を伺い知ることができる。長い付き合い知人の声であるがゆえに。だからこそ、できれば解りたくなかった。
「われわれはー」
 妙に間延びした声は、美鈴の声だった。門から距離があるだろうに、どういう手段か彼女の声がはっきり聞こえる。
 あいつは何を始めようというの。咲夜さんの硬直が解けない。今の声は働きすぎが生み出した幻聴か何かで、もう少しでいつもの紅魔館に戻るのだと、幾分の期待を秘めて待つ。
「不当なる搾取を受ける労働階級としてー、ここにー告げる」
 咲夜の期待を粉砕するひび割れた声。
「待遇の改善とー、名前を正しく呼ぶことをー、前提に、次のことをー要求する」
「……」
 無言で、咲夜はシャーベットの皿をテーブルに戻す。
「まず、昼休み1時間と、任意の睡眠を取る時間30分を紅美鈴に与えよー。しかる後に、『お疲れ様、美鈴』とか『大変だったわね、差し入れよ』とか労わりをかけることを、ここに切に要求するものであるー!」
 先ほどまでシャーベットの皿を掴んでいた咲夜の右手には、いつの間にかナイフが握りこめられていた。刹那、開け放たれた窓から飛び出していく咲夜さんの姿があった。

「できるならばー、風雨を避けるために門の傍に小屋を……わわわわっ」
 美鈴の声の乱れは、怒気漲る咲夜の接近を視認した動揺そのものだった。どこぞの香霖堂で調達した拡声器も放り出して、及び腰のまま対抗のスペルカードをまさぐる。
 美鈴の混乱は小悪魔さんの本と違うこの展開によるものだ。本によれば、相手は交渉のテーブルにつくはずなのに。
「こ、これだ! 労符『蟹光線』!」
「わけのわからんスペルを増やすなーっ!」
 発動する間もなかった。
 一瞬の交差の後には、脳天にナイフを生やす美鈴の残骸が残るのみ。
「ああ、頭が痛い」
 地に伏す美鈴を見下ろし、虚しげに額に手を当てて嘆息を吐き出す咲夜であった。

 咲夜が疲れた表情で立ち去ると、代わって美鈴の元に近寄る影があった。周囲を伺うようにこそこそと近づいてきたのは、小悪魔。
 無残そのものの美鈴の傍らに屈み込むと、形のよい眉をひそめる。
「美鈴さん、なんて姿に」
「うう、小悪魔さん、あの本と結果が大分違いますよう」
 涙目の抗議にも、小悪魔は眉一つ動かさない。
「その前に美鈴さん、昨日渡した本は全部読んでくれましたか」
 美鈴の疑問を黙殺。代わって返してきたのは、有無を言わさぬ確認だった。
「いや、序文だけ……」
 自分の問いはどこへらや。逆に申し訳なさそうに答える美鈴の言葉に、小悪魔はわざとらしいため息。
「全部読んでいれば、弱者が強者にルールを与えるには大衆の力が必要だということがわかったでしょうに。いいですか美鈴さん、一人ではだめです。明日中に外部に仲間を増やしてください。紅魔館内部は私がまとめます。いいですね?」
「へ?」
 着々と進んでいく何かに、美鈴から戸惑いの声が漏れる。
 よほど間の抜けた表情をしていたのだろう。見下ろす小悪魔の口元に、微笑が浮かぶ。
「美鈴さん、へ、という返事では意思が伝わりません。返事は『熱烈に賛成』から『反対ではない』までの間でお願いします」
 選択肢が幅広く感じられるのは、いつも咲夜さんに「美鈴、返事は『はい』か、もしくは『はい』で応えなさい」と言われているせいだろうか。
「は、反対ではない」
「ありがとう、同志」
 同志って、なに?
 新たな呼称の出現に、鈍感な美鈴も風向きがおかしくなりつつあることを悟る。
 吹き荒れる暴風の只中に放り込まれようとしている実感。けど、だからといって自分に何ができるだろう。自分という小船は、激流に棹を差してそのまま転覆するより、川が穏やかな大河に流れ込むことを伏して祈ることしかできない。
「明後日こそが、私たちの階級闘争の本番ですよー!」
 悄然とする美鈴の目の前には、握りこぶしを天に向け、力強く宣言する小悪魔の姿。
 船は順調に滝つぼへ向かっているようだった。



 火熾し器の白炭が、柔らかな熱を帯びてきた。頃合までもうほんの少し。火ばさみを差し込む。ちりちりとミスティアの指先を伝う熱。
 炭を転がす。空気に触れて、パチチと小さくはぜる。
 火種にしていた黒炭はもう灼熱を過ぎて白みを帯びていた。その段階になってようやく、灼熱の色がじんわりと白炭に移っていく。火付きの充分な白炭を焼き台へ。
 夜雀の八目鰻屋は今日も好評営業中。
 月も陰る深い闇の中で、煌々と灯る赤提灯がお客を誘う。
「いらっしゃーい」
 暖簾をすり抜けて入ってきた三人の人影に陽気な声をかける。早速のお客さんにミスティアの声は上機嫌で、挨拶の声もどこか音階を踏んでいた。
「こんばんはー。まずは蒲焼ときゅっと冷えた日本酒、あたいと、妖夢と、美鈴。三人分ー」
「ま、待ってください。私はこれからも仕事があるのでアルコールは」
 威勢のいい注文の声に、生真面目な声が被さる。
「せっかくの美鈴の奢りなのに、もったいないねえ。日本酒二つときゅっと冷えた水一つね」
「はーい、了解」
 定番の注文。仕込みを終えていた鰻の白焼きを、たっぷりのタレに潜らせる。焼き台にのせると、しずくが白炭におちて、短く香ばしい音を弾いた。
「今日は珍しい組み合わせだね〜」
 コップにトクトクと小気味のいい音を立てつつ、好奇心に満ちた遠慮のない視線を投げかけてる夜雀。
「でしょ。里で偶然に会っちゃってさー」
 明るく応じたのは死神の小野塚小町。今日はオフなのかその手に大仰な鎌はない。その右隣に座らされたのは白玉楼の庭師、半人半霊の魂魄妖夢。左手を小町 に親しげに握りこまれて、ため息混じりの面持ち。妖夢を挟んで腰掛けるのは紅魔館の紅美鈴。よく見れば、妖夢に密着して、小町と両側からがっちりと妖夢を 固めている。
 妖夢が連れ込まれた図だ。見た目からして、お姉さん二人が子供を引っ張り込んでいるようで実に気まずい。
 それにしても夜雀が気にかけるほど奇妙な組み合わせだった。
 この面識のほとんどない三人が集まった理由を、美鈴だけが知っていた。昨日、小悪魔に外部の協力者とやらをつくるように言われ、とりあえず人の多い里周 辺で途方に暮れていたところ、里で休暇を楽しんでいた小町がいたので声をかけたというだけの話だった。博麗神社での宴会で顔を合わせただけで、そんなに会 話もしてない間柄だけに怪しまれそうなものだが、小町の性格だろう。奢りというだけで年来の友人のような親しみを見せてくれる。
 妖夢は幽々子のお使いにきたところを小町とともに捕獲した。「まあまあ」「いいからいいから」「とりあえず、さ」の台詞を何度も小町が繰り返すだけでここまで連れてこられる妖夢に、美鈴は同類の臭いを嗅ぎ取らずにいられない。
「なんで、私はここに連れてこられたのですか」
 この場にきたことである程度の義理を果たしたと思ったのか、改めて質問をぶつけてくる妖夢だが。
「乾杯の後に教えるよ」
 妖夢のおかっぱを優しくぽんぽんと鳴らす小町に誤魔化される。しかし、妖夢には察しがついた。その条件は「乾杯ってのは、全部杯を開けないと」「まあ、 せっかくだから鰻を食べてからでもいいんじゃない?」「なら、あたいたちと同じものでもう一回乾杯してからだよねー」と、どんどん引き伸ばされていくこと を。
 美鈴がお酒の注がれたコップを片手に立ち上がる。
「それでは、奇しくも日々労働に励む三人が集まったということで、本日は大いに連帯を……」
「まあまあ、難しい話は飲んでから、飲んでから。皆、コップもった? じゃあ、かんぱーい!」
 スポンサーを立てる気は皆無の小町であった。
「か、かんぱい」
 慌ててそれに合わせる美鈴と、発声すらしない妖夢。
 コップを置き、思い切ったように口を開く。
「申しわけないのですが、もうそろそろ帰って幽々子様の夜食の支度をしないと……」
「大丈夫だよ、妖夢さん〜」
 それまで、焼き台の火加減と鰻の焼け具合を注視していたミスティアが久しぶりに口を開いた。手馴れた仕草で盛り付け、三人の前に届ける。
 ふっくらと肉厚の鰻だった。小町が先陣を切って箸を入れると、現れたのは満遍なく熱が通ったほくほくの白身。濃厚な香りを含んだ湯気が漂う。立ち上がりかけた妖夢の気を一瞬挫く程に。
「うちの八目鰻をお土産に持って帰ればいいよ。お酒をほんの少し加えて軽く蒸すと、すぐほっこり柔らかになるからね」
「それは……なるほど」
 妥当な提案には頷かざるを得ない生真面目な妖夢であった。
「そしてその際には世の中には夜雀よりも美味しいものがあると、くれぐれもお伝えくださるようお願いします」
「はあ」
 ミスティアの必死の懇願を聞きながら、妖夢は長年連れ添った主の思考パターンが「なら、食べ比べてみましょう」に達することを予感していた。その際には必死に止めたいとは思う妖夢だが、それはミスティアの期待に比べてあまりにも水際防衛にすぎる。
 様々な思惑を秘めたまま、第一回労働者決起集会は開催されようとしていた。

 難しい話は飲んでから。
 誰がどう聞いても戯言の出来損ないである。案の定、日本酒きゅー、鰻ほくほく、日本酒きゅーのループに取り込まれた小町と美鈴のテンションは、開幕一時間で怒涛のクライマックスを迎えていた。
「だから、えーき様も怒る前に思い出してほしいのよ。あたいのこれまでの忠勤をさあ」
「わかる、わかりますよー、それ! 一瞬の過ちを問う前に、何十年も積み重ねてきたの毎日を見てほしいですよ」
「おお、美鈴も言うねえ。飲みな。日々、苦労しているあたいらこそが美味い酒を飲む権利があるのさ」
 両脇の熱に対して、一人ついていけない妖夢は絡まれないこと願いつつ、うなぎの佃煮をつまんでいる。さすがにミスティアさんのお勧め。ふわりと生姜が香 り、煮込まれたうまみがクドさを残さず口の中で解けて行く。気づかないほどに薄い塩気がポイントなのかな。お気に入りになりそうだ。
 さっきまで自作の歌を小気味よさそうに歌っていたミスティアが、お酒を注ぎ足しながら次のお品を提案した。
「今日はいい肝が入っているよ〜」
「おー! キーモ、キーモ!」
 小町と美鈴が肩を組んで即興のキモコール。
 妖夢は思わず夜空を見上げる。よかった、幸いにして今日は弓張り月。リボン付きの角に狙われることはなさそうだ。
 真っ赤な顔で何事にも大笑いで応じあう小町と美鈴。すっかり打ち解けた雰囲気に気が緩んだのか、美鈴がふと声を潜めて素直な疑問を口にする。
「ところで、死神さんのお給料ってどこから出ているんですか。どれぐらい、とか……」
「あんた、なんてことを聞くかね」
 にやりと笑みを含んで、美鈴の額を小突く。口ほどに気分を害した様子もなく、小町はすんなり応じた。
「えーき様が管理する予算からもらってんだよ。大体、これぐらい」
 美鈴の手のひらに数字を指で書く。美鈴はくすぐったさを感じながら少し気が滅入る。年収だとして、私の1.2倍じゃないか。
「それが、あたいの月給」
 その衝撃は、リアクションが取れる次元ではない。美鈴は物言わぬ石像になった。
「やっぱり、世間一般に比べると低いよな」
 小町からの重い追撃を食らって息の根すらも止まったかのような美鈴。その傍らを抜け、ミスティアが注文の肝焼きを持ってくる。
「はい、お持ちー。ほろ苦い香ばしさがお酒によく合うよ」
「ありがとう、食べる前にこんなにほろ苦い気分になるとは思ってなかったけど」
 涙目で肝を頬張る美鈴を、失礼だと承知しながらも可愛いと思ってしまう妖夢だった。
 小町は落ち込みかけた場を繕う。
「でもさ、休みが本当になくて。今日も久々さ。美鈴はどう?」
「えへへ、咲夜さんがローテーションをつくって時々、休ませてくれるんですよ。里のお祭りの時とか、都合つけてくれるんです」
「へー、あの地獄の鬼とタメがはれそうなメイドさんがねえ。雰囲気と違うもんだ」
 盛り上がる酔っ払いの話を聞きながら、妖夢は儚く微笑んでいた。
 私、給料0で、休みも0なんですが。
 口にできない悲しみをこらえるには、微笑むことしかできない妖夢であった。
「まあ給料はどうあれ、使われるものの悲しさってやつは同じことさ。たまには上司にガツンと物申さないとね」
 それに応えて、顔を上げる美鈴の表情は、なぜか引き締まったものだった。
「そのとおりです同志よ、持たざる者は上と闘っていかなければなりません。頑張りましょう!」
「あはは、持たざる者同士、頑張ろうってね!」
 幾分異なる響きを持つ同志だったが、がしっと肩を組む二人。
「栄光あれ、我らが自由なる祖国〜♪ 人民友愛の拠るべき砦よ♪ 赤き人民の旗は我らを勝利から勝利へと導く〜♪」
 ミスティアが歌い始めた謎の国歌に合わせて、勇壮に左右に揺れる二人。
 まったくついていけないまま、二人の間に挟まって揺らされるだけの妖夢の脳裏で、「持たざる者」というフレーズがリフレインしていた。
 背丈の違いから、妖夢の頭はちょうど二人の胸の位置にくる。両方からの豊かな二つの膨らみによる圧迫。それは、常日頃「あんなに食べないと、大きくなれないのかな」と羨望を覚える主のアレに勝るとも劣らない大きさだ。
 また、美鈴の引き締まった腰の高い体つきと深いスリットから伸びる健康的な形のよい足。小町のふくよかな胸元を強調する帯から始まる女性らしくしなやかな腰のくびれと小さなお尻の形づくるライン。
 幼児体系で着るものを選ぶ妖夢からすると、理想そのものだった。
 二人が持たざるものなら、私はなんになるのでしょうか? 存在が、マイナス?
 妖夢の儚い微笑みは、もはや明け方の夢のように消え入る寸前だった。
 ひそやかな黄昏をはらんで、屋台の宴は佳境に入っていく。



 いかなる精神状況でも従者としての役を放り出さないのが魂魄妖夢である。
 宴会の終了後、ぐでんぐでんの小町と千鳥足の美鈴と別れて白玉楼へ戻った妖夢は、すぐに幽々子の夜食の支度に取り掛った。
 ミスティア直伝の暖め方もあって、綺麗に食べつくした幽々子も満足げに手を合わせる。
「美味しかったわ、妖夢ー。今度、屋台で食べ比べてみましょう」
「やめてあげてください」
 予想通りのやり取りを交わしつつ、食器を片付けていく。
 上機嫌の幽々子を見ていると、妖夢はいつも通りの日常に戻った実感がわく。この穏やかな時間を幽々子様と過ごせるのだから、別に給料がなくても、休みがなくても、私は幸福なんだと改めて思う妖夢。
 片付けものも一段落。そろそろかなと、二つの湯飲みを並べる。急須と茶葉を揃えたところで、いつもの台詞が聞こえてきた。
「妖夢ー、お茶をもらえるかしら」
「はい、ただいまお持ちしますね」
 返す言葉もいつも通り。少し眠りが浅くなるかもしれないけど、主好みに濃いお茶を煎れ始める妖夢だった。

「妖夢」
 日付も変わろうかという深夜。早めに床に入っていた妖夢に、襖越しに呼びかける声。
 幽々子様? 意識を引き起こす。
「どうしました、幽々子様?」
 頭の芯にかすかに残したまどろみを、自分の声でかき消した。
「妖夢、大変よ」
 その言葉が耳朶を打つなり、妖夢は突き動く。声もなく半身を捻り起こす。滑るように布団を抜けだすその時には右に楼観剣、左に白楼剣。起き上がりざまの姿勢で、裏拳で畳を叩く。わずかな反動で身を起こしつつ、幽々子の声へ駆け寄った。
 逼迫した危機の備えとして、二振りの刀を置く位置から修練していた所作に躊躇はない。
 主の姿を求めて滑りのよい襖を開け放つ。
「わ、だめよ、妖夢。襖が痛んじゃう」
 それなのに、返ってきた幽々子のリアクションはまるで物足りない。
 少なくとも、妖夢をきょとんと見返す幽々子には危機感の欠片もなかった。女性らしい体の線を白絹の寝間着に包み、あどけない程に無防備な表情で妖夢を覗き込んでいる。
 その様子に、妖夢は少し平静を取り戻した。
「幽々子様、どうしました?」
 妖夢の問いかけに、幽々子は優雅に自らの腹部へ手をあてた。
「お腹が空いたわ」
 それは、朝、昼、おやつ時、夕、夜と、すでに本日五回は聞いた台詞だった。
「幽々子様、大変というのは……」
「お腹が空いて、眠れなくて大変なの」
 妖夢は必死だった。脱力で腰を落としたい衝動を堪えることに。
「夜食はすでに食べたかと思いますが」
「やあねえ、妖夢。これは夜々食よ」
 なんですかそれと、指摘の言葉を吐き出す気力もない。
 幽々子が後ろに回りこんで肩を押し、されるがままにとぼとぼと台所へ歩かされていく。気が抜けて、力が入らない。楼観剣、白楼剣がやけに重く感じられ る。まるで、祖父の魂魄妖忌に始めてこの剣を渡された時のように。あの時、祖父は「妖夢、幽々子様を頼む」と、大きな手のひらを私の頭にのせて不器用な笑 顔をくれたっけ。
 ……幽々子様を、頼む?
「蕎麦がいいわねえ。ね、妖夢」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 声を出した妖夢本人も驚くほど強い声が出た。
 訝しみ、覗き込む幽々子様を見て、妖夢は祖父、魂魄妖忌を深く思い起こす。
 私がお仕えする前、幽々子様は夜食すらたまにとる程度だったと聞く。それが、一日四食が常となったのは自分の代になってから。この変化が妖忌と妖夢の違い。厳格な祖父は、幽々子様の頼みを拒絶してまで一日の範を守らせることを重視したのではないだろうか。
 なぜ、お腹も壊さない、体型も崩れない亡霊の夜食を制限する必要があるのか。それは、幽々子様が亡霊であるが故。本来、亡霊は純粋な人間の精神だ。人と しての理性の枷が外れると、渇望が暴走していくらでも食らいつくす。人の理から外れた亡霊は醜悪な災厄そのものでしかない。その災厄と幽々子様を分けるの は、何者をも恨まない穏やかな心と自己を律する深く強靭な理性。
 だからこそ妖忌は死を操る程の力を持つ幽々子に抗してでも、幽々子に自己を律するよう促したのだろう。
「妖夢?」
 考え込んだ妖夢を心配げに見つめる幽々子。主のあまりに可愛らしい顔を見ていると、満面の笑みで「ありがとう、妖夢ー」と言わせたい単純な欲求が芽生えるが、耐えた。生まれ持ったクソ真面目さで、耐え切った。
「幽々子様、だめです」
 搾り出すような声。
「ここは、我慢して寝ましょう」
「そ、そんな、妖夢!?」
 最愛の恋人に裏切られたかのように飛びずさって驚く幽々子。
 予想以上の反応に戸惑いつつも、できるだけ優しい声を選んで妖夢は幽々子に話しかけた。
「幽々子様。明日の朝ごはんは腕を振るいます。鰻の佃煮をつかったお茶漬けなんてきっと美味しいですよ。ですから、今日はもう寝ましょう」
「……ううう、ひどいわ妖夢」
 明らかな嘘泣きにすら気が咎める妖夢だが、祖父の譲りの頑固さがここは持ちこたえた。
 幽々子を寝室まで送って、自室に戻る。
 再び、眠りに落ちようとしたその時だった。

「恨めしや〜。一食、二食、三食、四食……一食足りなーい」

 今畜生。
 少し腹立ち紛れに襖を開け放つと、やはり襖の向こうには幽々子の姿があった。両手を胸元に下げて幽霊のポーズ。その仕草は恐怖よりも、むしろ抱きしめたくなる衝動を呼ぶ。
「よーむー」
 幽々子の涙すら浮かべそうな視線を受けると、妖夢の生真面目さですら大きく揺らいだ。今日だけはという言葉が、脳裏で鎌首をもたげる。頭を振るが、言葉を追い払うことできない。妖夢は妥協を探った。
 幽々子様を泣かせず、幽々子様に厳しいところを見せるには……
「お腹空いたので自分のために何かつくります。べ、別に幽々子様のためじゃないですからね!」
「えっ、ツンデレなの!?」
 迷走する庭師と素で驚愕する主を置き去りに、白玉楼の夜は更けてゆく。



 翌日の紅魔館。
 早朝、昨日にまで続いた残暑も幾分の和らぎを見せていた。
 湖面を抜ける風がこもった熱を除くのか、肌を刺す日差しも凶暴さを潜めている。二日酔い気味の美鈴にはありがたい天候だった。
 結局、ただ飲んで食べてお金がなくなっただけだなあ。昨日のことを思い返す美鈴。同志を募れという小悪魔の言葉は、コップを三回空にしたところまで覚えていた。後は馬鹿騒ぎして、すごく楽しかった記憶が残るのみだ。
 まあ、小悪魔さんには後できちんと謝ればいいか。鼻歌混じりのお気楽な足取りで、勤務場所までの道のりを歩いてゆく美鈴。
 そんな暢気な気分が吹き飛んだのは、自分の勤務場所にたどりついたときだった。
 一見して、ただごとではない。
 椅子、テーブル、ベンチ、レンガと紅魔館のどこから持ち出してきたのか、雑多なものが門の前に積み重なり、山となって門を塞いでいた。
「美鈴同志。バリケードの設置は完了しました」
 山の頂きから、小悪魔同志が物騒な朝の挨拶を投げかけてくる。その背後にふよふよと幾重にも漂うのは紅魔館の妖精メイドたち。美鈴が知る限り、その数はほぼ館の総数ではないか。
「小悪魔さん、これは!?」
「ついにプロレタリアートは団結したのですよ」
 高らかに宣言する小悪魔。日差しを背に受けて、悪魔のシルエットが光の中に浮かびあがる。その手にある本は先日のものに比べて重厚な装訂が施されたものだった。
 逆光と手に隠れてタイトルが完全に読みとれないが「なんとか宣言」と書いてあるように見える。「関白宣言」とかであってほしいと願う美鈴であった。
 それにしても、本当に団結したのだろうか。美鈴の目には妖精たちはただ気ままに飛び回っているだけに見える。小悪魔が楽しげなことを始めたので、はりきって一緒に遊ぼう。そんな様子だった。
「美鈴同志、外部の協力者はどうしました?」
 はるか上段から見下ろしての小悪魔の質問。美鈴の脳裏に査問委員会という単語が浮かんで、慌ててかき消す。
「こ、声はかけてみたけど駄目でした」
「仕方ないですよ。相手が修正主義者では」
 緊張する美鈴に、一転して寛大な微笑を見せる小悪魔。耳慣れない単語について聞きなおす勇気が美鈴にはもうない。
 美鈴には一昨日の小悪魔とはまるで別人に見えるのだ。いや、よく考えるとあの時から若干おかしな気配があった。
 いつもの小悪魔さんに戻ってくださいようと、いまさらながら美鈴が半泣きのまなざしを向けると、小悪魔はふわりと山の頂きを降りてきて、美鈴の傍らに寄り添い立つ。
「心配ありません、美鈴同志。準備は万端です。革命へのシュプレヒコールを始めましょう」
「は、はあ……」
 マイクを優しく手渡されると、やらなければならないような気分になる美鈴にも、それなりの責任があるのだった。

 朝方にレミリアが目覚めているのは、本来とても珍しいことだった。
 理由は単純。霊夢のところへ遊びに行くため。
 突発的なレミリアの思いつきに関わらず、主が席に座るまでに朝食の支度を整える咲夜。
 それでも、そもそもの準備が充分ではなかったのだろう。食卓に出てきたのはフレンチトーストだった。卵と卵黄、砂糖をよく混ぜた後、生クリームと風味付 けの香料を加え、さらに混ぜ合わせてから漉す。後はパンの両面にたっぷりと吸わせ、マーガリンをひいたフライパンで軽く熱を加えて漬け汁を逃げないように し、オーブンでふっくらと焼き上げる。
 それなりに手が込んではいたが、レミリアには少し庶民的に見えるのも事実だった。
「こういうのも嫌いじゃないわ」
 とはいえ、霊夢に会いに行くときのレミリアは例外なく上機嫌だ。
「ありがとうございます」
 主の許しに咲夜にも笑みがこぼれる。
 あとは食べやすく切り分けるのみ。
「ところで咲夜。最近、館で変わったことはなかったかしら」
 パン用のナイフを手にした咲夜が固まる。レミリアは特に関心を持たず、世間話の代わりに振ってきた話題だが、咲夜には心当たりが充分にある。だからと言って素直に報告すれば「じゃあ、あの子はクビね」と、裁定が下されかねない。
「特に変わったことはありませんが、少し考えていることがありまして。門番の美鈴のことなんですが」
「紅美鈴? どうしたのかしら」
 咲夜は一種のためらいを見せた後、言葉を続ける。
「真面目に仕事をしているようですし、お嬢様さえよろしければお給金を増やしてあげたいのですが……」
「いいんじゃないの」
 快諾したのはただ反対するのが面倒だっただけに過ぎないが、口元を安堵でほころばせる咲夜を、自分もまた含み笑いで見守るレミリアだった。
 しかし、咲夜が感謝の一礼を返そうとレミリアに向かい直ったその時。
 どこかで聞いた、ひび割れたでかい声が聞こえてきた。
「あーテステス。まいくテスト。本日は晴天ナリ」
 空は確かに晴れ渡って高く、天まで届きそうなほど。それなのに、咲夜の心はこの瞬間から暴風雨であった。
 レミリアは席を離れ、カーテンの影から窓の外を眺める。
「なにかしら、あれ?」
 指を刺す方向には門に出現したバリケード。美鈴と小悪魔、そして妖精たちが勢ぞろい。ちょっとした壮観だった。
 レミリアの疑問に咲夜は答えられない。咲夜には美鈴たちのしていることが理解できないからだ。もちろん、美鈴ですら自分のやっていることがよくわからない。カンペを持って微笑んでいる小悪魔だけがわかっているのだろう。
「えー、紅美鈴及び妖精連合は次のことを要求するー。おやつは午後3時の他に午前10時にも用意しろー。メイド服をもっと可愛いデザインに変更しろー。咲夜さんだけフリル多めの短めスカートでずるいぞー。年甲斐もな……ちょ、この台詞はいえません!」
 要求水準の低下が妖精連合を加えたことの弊害のようだ。しかも、意思の不統一が見え隠れする。
「あらあら、面白いことを始めたのね」
 レミリアは思わぬ余興に出くわした子供のように笑みを見せるが、パンを切る体勢のまま固まっている咲夜にはそれどころではない。そのまま終わってくれと願うばかりだ。
「次にー前回の要求にあった賃上げを引き続き要求するー。給与ベースは彼岸の死神と同水準! の、12分の1ぐらいで構わない。格差社会を是正せよー」
「いまいち伝わりにくい要求ね。というか、格差社会の是正とやらを吸血鬼に求めるのはどうかしら」
 一々律儀に応じるレミリアも可愛らしいが、咲夜にはその可愛らしさを堪能する余裕がない。こみ上げる怒りを堪えて、それでも堪えきらずにプルプルとパンナイフを持つ手が震えている。
「霊夢にも見せてあげたい小異変ね」
 一通り美鈴たちの様子を見て興味を満たしたのか、ようやくレミリアが席に戻った。
「さあ、食事を再開しましょう」
「……」
 しかし、パンを切り分けるはずの咲夜の手は怒りをこらえて握り締められたままだ。
「咲夜? いいから、ナイフを使いなさい」
「はい」
 短い返答。だが、動いたのは手ではなく、表情だった。
 無表情から鬱屈した笑みへ。
「奴を、ですね?」 
 瞬きの間に、咲夜の姿は掻き消えていた。
 ああ、なるほど。少しして、レミリアは自分の言葉がどんな解釈がされたか理解した。咲夜の血の気の多さは困ったものね。従者を思い、含み笑いをもらす。
 くー。
 気を抜いた途端に響く可愛らしいお腹の音。目の前には冷めつつあるも、こんがり香ばしい色のフレンチトースト。切られてはいないが仕方ない。両手でトーストを持つ。あーん。口を精一杯大きく開けてトーストの端に口をつけるお嬢様。
「あっ」
 かくして、今日もレミリアは白いおべべを汚すのだった。

「そしてー、本日、最も強く要求するところは図書館の予算……て! さくやさんっ!」
 美鈴が旧知の姿を認めて、次に絶句する。
 それは、人の姿をした殺気の塊だった。
 まなじりを吊り上げ、瞳は血の色。手にもったパンナイフですら千人を刺し貫いた凶器に見える。
 まず、吹き付ける怒気に、妖精たちが掃き捨てられる埃のように逃げ出した。
「なるほど、本にあったとおりですね。ピケを破るのは権力者側の労働者である、と」
「こ、小悪魔さん、逃げなきゃ!」
 一人満足げな小悪魔の手を引き、一目散に逃げ出す美鈴。
 咲夜の視線は明らかに美鈴にロックオン中なのだから、放ってくれたほうが安全ではあったが。
 その二人の背にかけられる咲夜の声。投降の呼びかけかと、耳を傾ける二人。
「死ぬ前に! 言いたいことがあるなら、言ってみなさい!」
 投降の呼びかけではなかった。咲夜の言葉を意訳するなら、あなたの墓に刻む墓碑銘を教えてください。
「こ、殺さないでー!」
「それは無理。あ、こらっ、逃げるな!」
 殺しますけど、逃げないでください。咲夜の要求こそ無理というべきだろう。

「……っ」
 咲夜の舌打ちは、目標物を一時見失ったことを意味していた。
 二人が逃げ込んだ場所はわかっている。足元に広がるのは紅魔館自慢の花畑。美鈴自らが管理している花畑の一角、茂みとなっている場所のどこかに潜んでいるのだろう。
 一面にナイフの雨を降らせることもできるが、この花畑を月夜に楽しげに散歩するレミリアの姿を思い浮かべると、そんなことはできるはずがない。それに、最初に怒気を発散させたおかげで冷静になりつつもある。
 未だ、美鈴たちの理不尽な振る舞いには怒りがわいて頭痛までするが……
 今も一連の出来事を思い返して、不機嫌そのものの表情に、深い眉間の皺を刻む。
「メイド長じゃないか。そんなしかめっ面で、どうした?」
 そんな彼女に声をかけられる図太い神経を持つ人間は、幻想郷といえも数少ない。
 咲夜は声の方向に向き直る。
「あら。また忍び込みにきたの、魔理沙?」
 箒にまたがった可憐な少女の外見に、小気味いい男言葉が特徴の泥棒がそこにいた。見慣れた部外者の登場に、咲夜は不敵な微笑みを取り繕う。
「そのつもりだったんだけどなあ……今日はやめとく」
 対する魔理沙はばつが悪そうに三角帽子越しに頭をかいていた。
「やめた?」
「美鈴だけならともかく、門をあれだけ固められると気合負けだ。さすがメイド長だな。いつも同じ手では進入させないってことか」
「ええと……そうよ」
 話の流れがまたしてもおかしくなってきた。咲夜としても持ち上げられてしまっては、あのバリケードが実は内に向かっていたなど、ばつが悪くていえたものじゃない。
「けど、今回は私の覚悟が足りなかっただけ。次は突破しみせるぜ。じゃあ、パチュリーとフランによろしくな」
「形だけでもいいから、お嬢様を加えなさい。あと、二度とくるな」
 魔理沙を見送りながら、ため息一つ。美鈴が妙な形で警備に貢献するとは。
「それにしてもあいつ、門番してない時のほうが仕事を果たしているのね」
 自分の言葉に、思わず含み笑いがこぼれる。しまった、笑ってしまった。美鈴たちへの怒りが淡く消えていく。怒りは笑いに敵わない。紅魔館にきて、咲夜が知った沢山のことのうち一つ。
 そうなってしまえば、もはや咲夜にやらなければいけないことは事態の収拾だけ。恐る恐る遠巻きに見つめる妖精たちに、咲夜の呼びかけが届く。
「あのバリケードを元通りに撤去したら、今日は特別に10時にもおやつをあげるわよ」
 あとは首謀者の確認。一斉に戻っていく妖精たちを見届けて、咲夜は花畑へ下りていった。

 美鈴が潜んでいたのは、花畑から少し離れた藪の中である。
「咲夜さんは怖い」
 地面にうつ伏せに、美鈴がつぶやく。
 小悪魔は美鈴の傍らに膝を折って腰をおろしていた。
「そうですね、咲夜さんが動き出すと悪魔も逃げ出します」
 同意してみせる小悪魔。説得力は抜群だ。
「咲夜さん、土下座で許してくれるかな」
 美鈴の呟きには、もう労働運動当初の面影はまるでない。
「そこまでしなくていいわよ」
「え?」
 声のした方向に振り返る。その視界には見慣れた靴とニーソックス。視線を上に上げていく。メイド服のスカート、フリルの可愛いエプロン、薄い胸、そして その向こうに咲夜の無表情。いや、口の端だけに笑みを浮かべている。もう怒ってないことを示すための表情のつもりだったが、小悪魔にはかえって恐ろしげに 見えた。それは美鈴にも同じことだろう。腰を抜かしたまま後ずさりもできない。
「で、どちらがお祭りの主催者なのかしら」
 咲夜の言葉には詰問よりも興味の色が濃い。
 そんなに怯える必要はなさそうですよ。小悪魔はそんな思いをこめて美鈴に微笑を向け、語りかけた。
「美鈴中央委員会書記長、どうやら党も、あなたの野心もここまでのようです」
「なに、その役職!? あと、どんな話にまとめようとしているの!」
「冗談です」
 取り乱した美鈴の唇に指をあて、今度は悪戯っぽい表情を見せる小悪魔。美鈴たちがよく見かけるいつもの小悪魔の表情だった。
 小悪魔は立ち上がり、事の成り行きに沈黙を守っていた咲夜に向き直る。
「今回のことは、私が本に書いてあることを実際に試したくて美鈴さんたちを巻き込みました。ごめんなさい」
 赤い髪が揺れてぺこりを頭を下げる。咲夜はしばらく沈黙のままだったが、やがてため息まじりの声を吐き出す。
「で、どうだった?」
「今回は現象をなぞっただけで終わりました。やはり社会全体の成熟が必要のようです。ですが、楽しい体験でしたよ」
「……まあ、いいわ。でも、この子は素直すぎるからあまり焚き付けないでね」
 腰が抜けたままの美鈴の頭に手をのせる咲夜。
 自分の頭上に置かれた手に身を硬くする美鈴。そっと、咲夜を見上げる。
「咲夜さん、怒っていませんか?」
「もう、どうでもよくなっちゃったわ。それよりも早く仕事に戻りなさい。1年ぐらい真面目にしてたら、給料ぐらい上げてあげるから」
「は、はい!」
 ようやく、いつもの元気のよさを取り戻した美鈴。彼女は知らない。それが実質的に1年の昇給延期になっていたことを。
 
 紅魔館に平穏が戻ってきた。
 門番は、咲夜が持ってきたお嬢様のお下がりの日傘を手に、幸せそうに勤務中。
 小悪魔は、今回の図書を棚にしまいこんで一介の司書に逆戻り。
 咲夜はその様子を確認して、仕事に戻る。これで、咲夜の神経を逆撫でするものは紅魔館からなくなったはずだった。
 図書館の前で遭遇した意外な侵入者を除いては。
「あなたはどこから忍びこんだのかしら」
「忍びこんだなんて、ひどいわー」
 詰問に等しい咲夜の問いかけを受けながら、亡霊のお嬢様はおっとりとした抗議を返す。白玉楼の西行寺幽々子であった。
「これでも、正式に本を借りにきた利用者なのよ。文書カードも書いたんだから」
「はい、書いていただきました」
 図書館の受付から裏付けとなる小悪魔の声。
「うちがそんなサービスを始めたとは初耳ですが」
 言いながらも、幽々子の言うとおりなのだろうと推測する咲夜。身元のしっかりした者に、パチュリーが許可を出したとなれば咲夜に言い及ぶ権限はない。
 それでも、疑問を抱いたら問いたださずにはいられないのが咲夜の性格である。ただでさえ、小悪魔の本が原因で意味不明の騒動が起きたばかりだ。白玉楼だけならともかく、波及してこっちまで話がきたらたまらない。
「失礼ですが、こういう使いは大抵そちらの庭師の役目では?」
「妖夢には内緒なのよー」
 問題の核に妖夢がいることを察する咲夜。いや、幽々子が隠そうともしないだけだが。
「妖夢さんに問題でも? 労働条件の改善を訴えた、とか」
「ううんそうじゃないの。実は、妖夢が反抗期というか、ツンデレになっちゃって」
 どういうことだ。
 想像力を突き抜けた白玉楼事情に、もちろんそれ以上突っ込めるわけもなく、咲夜は幽々子の姿を見送るのみだった。
 疲労のこもったため息がもれる。ここまで精神力を磨耗した一日は久しぶりだ。せめて、もう一人有能な部下がいれば。
「ねえ小悪魔、『あの美鈴が使える部下に!』という本はあるかしら」
「それでしたら、向こうの幻想文学の棚ですよ」
「ああ、そーでしょうね」
 もちろん、手に取る気も起きなかった。



 白玉楼の庭師、魂魄妖夢は先日の態度を思い起こしていた。
 自分の考えは方向としては間違ってはなかったと信じている。でも、幽々子の悲しげな顔を見るはめになったのは痛痒だった。
 妖夢は自分の中に生まれかけた弱気を頭を振って打ち消す。これから、幽々子様の庭師として、剣術指南として、頑張っていかなければ……
 妖夢の思考は、不意に柔らかな感触に包まれたことで遮断された。
 後ろから幽々子に抱きしめれていたのだ。
「ゆ、幽々子様?」
 あまりに近くに幽々子の息を感じ、慌てふためく妖夢。
 亡霊だというのにこの温もりは不思議だった。幽々子の体温は、心が解けそうな体温。豊かな胸だけではなく、幽々子は人を蕩けさせる柔らかさに満ちている。細い幽々子の腕にかき抱かれて、妖夢は身じろぎもできない。
「ごめんね、妖夢。さびしかったのよねえ」
「なっ、そんなわけでは」
 意外な言葉に反射的に振り向きそうになる妖夢。
 その妖夢の頬に重なる幽々子の頬。心地良いすべすべの肌とくすぐったく触れ合う。
「これからは、一日一回、ぎゅうとしてあげるからね〜」
「いえ、その、あの」
 答えを躊躇う妖夢を、桜花を思わせるよい香りが包む。
 桜の花びらに包まれるような幸福感に、太刀打ちできるはずがなかった。
「……はい」
 無駄な抵抗を諦め、屈服する妖夢。
 これが、幻想郷第一回労働争議において記念すべき待遇改善を勝ち取った同志妖夢の姿である。



 なお、妖夢が幽々子の部屋から「思春期の子供への対応〜小学生高学年のお子さんを持つお母様へ」という本を見つけるのは、それからまもなくのことであった。





※後日談

幽々子「でも、やっぱり血縁ね」
妖夢「えっ?」
幽々子「妖忌も抱っこしてあげたら、何でも言うこと聞いてくれたわ〜」
妖夢「……ジジイ」




TOP

-Powered by HTML DWARF-

inserted by FC2 system